現在主義への抵抗 Rudwick, Worlds before Adam, ch. 23

Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform

Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform

  • Martin J. S. Rudwick, Worlds before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform (Chicago: University of Chicago Press, 2008), 331–46.

 チャールズ・ライエルの『地質学の原理』第1巻への反響と、第2巻の発表にいたるまでのライエルの状況が述べられます(1831–32年)。

 ライエルの『地質学の原理』の第1巻(1831年)たいして、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで鉱物学を教えていたウィリアム・ヒューウェルがレビューを著しました。そこでヒューウェルは地質学を自律的な学問分野として認めながら、ライエルがそこに新たな発見につながるであろう刺激を与えてくれたと評価しています。経験的であろうとして理論をたてることを避けてきた地質学の現状にとって、野心的に理論構築を試みるライエルの著作は新たな着想を生む刺激になるだろうというのです。また彼はライエルによる現在因の網羅的な検証には高い評価を与えます。しかしヒューウェルはライエルの現在因主義と、そこから帰結する定常的地球モデルにはきわめて懐疑的でした。ワイト島でトマス・ウェブスターが観察したような第三次層の激しい褶曲が、本当に現在因だけで説明できるのか。長い目で見れば世界の気温が冷えていっているという定向的な変化は定常的地球史モデルと両立するのか。そして最大の弱点として、ライエルの理論では突然の動植相の変化が説明できないのではないか。

 同じようにアダム・セジウィックもライエルの定常的地球史を受け入れませんでした。化石証拠は生命が定向的に歴史を刻んできていることをあきらかにしており、ライエルの見解には根拠がないというのです。セジウィックはエリ・ド・ボーモンに依拠して、地層の褶曲を引き起こす暴力的激変と、比較的穏やかな期間が交互に続くという見解を支持しました。セジウィックはまた洪積期の堆積物は二つの異なる時代に由来すると結論づけました。こうして彼は一つの全世界的な大規模な洪水が最後の激変を引き起こしたというバックランドやコニベアが支持していたような理論は放棄したのです。

 これら英国での鋭い反応にたいしてフランスでは『地質学の原理』おおきな反応を引き起こしませんでした。出版が七月革命と重なり、その政治的混乱のなかで翻訳を約束していたコンスタン・プレヴォは仕事を放棄してしまいます。フランスの地質学協会ではアミ・ブエが1831年に行った研究状況のサーヴェイのなかでライエルに言及しています。彼はさらに翌年には『地質学原理』の書評を出版し(ただしその内容は主としてコニビアによる批判の翻訳)、そこでライエルの著作を「地球創世論に関する哲学的著作」と形容しました。ブエもまたイギリスの多くの学者と同じく、ライエルの現在因の原理と定常地球モデルは受け入れていませんでした。

 『地質学の原理』第1巻が刊行されたときのライエルはスペインにいました。ロンドンに戻るにあたり、彼はパリに立ちよります。そこで彼は豊かな化石コレクションをもつデエーと共同研究する機会にめぐまれました。生物種がどのように現われては消え、その背後にいかなる自然法則があるかを探るといういまだ既刊部分では手をつけられていない課題に挑むためのまたとない素材と知見をデエーは与えてくれたというわけです。ロンドンに戻って以降も、ライエルはWilliam Broderipの協力を得ることができました。またライエルは第三次層を時系列に分割し、命名するにあたり、ヒューウェルの助けを得ました。第三次層よりうえの沖積層が「同時代」とされ、そこから見つかる現生生物の化石の割合が減少するにしたがって、Pliocene(pleio=more, cene=kainos=最近の; もっと多くの化石), Miocene(mio=より少ない;より少ない化石の), Eocene(eo=夜明け), Acene(aは否定辞; 最近でない)と名づけられました。

 このころライエルの現在主義を支持するかのような劇的な現象が起きます。1831年の夏にシチリア島沖で海底火山が噴火し、吐き出された灰により地上から30メートルほど隆起した火山が形成されました。これにより火山の形成には大地の隆起運動が必要であるというフォン・ブーフの見解は否定され、吐き出された物質の堆積によってのみ形成可能だということがわかりました。

 ライエルがロンドンのキングズカレッジのポストを得るときには、当時ロンドンのセントポール寺院の院長をつとめていたコプレストンに対していくつかの申しひらきをする必要が生じました。まず(とりわけ人間の)創造を認めよと迫るコプレストンにたいして、種の出現に「第一原因」を必要としないとする学説(ラマルクの進化論)を『原理』の続刊において攻撃するとライエルは述べます。洪水の存在を認めるよう求めるコプレストンにたいしては、ライエルは全地球を襲った洪水は認められないものの、かつて人類が住んでいた限定的な地域を洪水が襲った可能性はあると答えました。このケースは大陸では求められていなかった類の宗教的配慮が英国では必要であったことを示しています。