ヒュパティアの最期 大谷哲「史料翻訳:ソクラテス=スコラスティコス著『教会史』第7巻第13–15章」

 紀元後4世紀末から5世紀初頭にかけてアレクサンドリアで活動した女性哲学者ヒュパティアが、キリスト教徒によって殺害されたことはよく知られています。その模様を伝える重要な史料が日本語訳されていることを知ったので読みました。

 教会史家ソクラテスによれば、ヒュパティア殺害の背景には当時のアレクサンドリアにおける長官オレステスと司教キュリロスの対立がありました。この対立が顕在化する発端となったのが、ユダヤ教徒キリスト教徒の対立です。キュリロスの支持者である信徒が劇場の中で公然とユダヤ人たちを誹謗したため、長官オレステスはこの機会をとらえてその信徒をとらえて拷問を加えます。キュリロスはそこでユダヤ人たちに対してキリスト教徒への敵対をやめるよう脅迫しました。これに激昂したユダヤ人たちは、「互いに見分けられるようにと一人ひとりが椰子の枝の皮でできた輪を指にはめ、彼らはキリスト教徒に夜討ちをかけることを決めた」(3ページ)。こうして多数のキリスト教徒が殺害されたため、キュリロスの指示によりユダヤ人たちはアレクサンドリアから追放されることとなりました。この措置にオレステスは怒ります。都市の人口のそれなりの部分が失われてしまったからです。キュリロスはオレステスとの和解を試みるものの、長官は司教に敵意を持ち続けることになりました。

 この対立を目のあたりにした一部の修道士たち(ニトリアの山にいたらしい)は、アレクサンドリアにのりこみます。馬車で通りかかった長官オレステスを目にすると彼のことを異教崇拝者だとののしりました。修道士たちの一人アンモニオスが石を投げるとオレステスに命中し流血沙汰となります。アンモニオスは都市の民衆にとらえられ、長官に引き渡され、拷問によって殺害されました。司祭キュリロスは彼を殉教者とするように命じ、オレステスとの対立は一向に弱まる気配を見せませんでした。

 こうして高まった司教と長官との対立にヒュパティアは巻きこまれることとなります。「哲学者テオンの娘で、彼女の時代の全ての哲学者たちを遙かに凌ぐほどの文学と科学における学識をなした」ヒュパティアは、長官オレステスと頻繁に面会していました。そのため一部のキリスト教は、オレステスと司教キュリロスとの和解をさまたげているのは彼女だとみなすにいたったのです。

それゆえその中の何人かが,獰猛で凝り固まった熱意に駆り立てられた.その首謀者はペトロスといい,彼女が家に帰るのを待ち伏せ,彼女を馬車から引きずり出し,カエサリオンと呼ばれる教会へと彼女を連れ去った.そこで彼らは彼女を真っ裸にし,それから瓦で彼女を殺害したのである.彼女の遺体を細切れに引き裂いた後,彼らはずたずたにした四肢をキナロンと呼ばれる場所に置き,そこで燃やした.

 紀元後415年3月のことでした。

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