新プラトン主義者によるキリスト教批判

The Great Persecution: The Proceedings of the Fifth Patristic Conference, Maynooth, 2003 (Irish Theological Quarterly Monograph)

The Great Persecution: The Proceedings of the Fifth Patristic Conference, Maynooth, 2003 (Irish Theological Quarterly Monograph)

Plotinus, Porphyry and Iamblichus: Philosophy and Religion in Neoplatonism (Variorum Collected Studies)

Plotinus, Porphyry and Iamblichus: Philosophy and Religion in Neoplatonism (Variorum Collected Studies)

  • 「大迫害前夜のキリスト教への哲学的異議申立て」Andrew Smith, "Philosophical Objections to Christianity on the Eve of the Great Persecution," in The Great Persecution, ed. D. V. Twomey and M. Humphries (Dublin: Four Courts Press, 2009), 33–48; repr. in Smith, Plotinus, Porphyry and Iamblichus: Philosophy and Religion in Neoplatonism (Farnham: Ashgate, 2011), article XXIII.

 作業が一段落したので、次の段階に向かう前のお楽しみとして古代史関係の論文を読みました。いやあ古代は楽しいな。ローマでは当初キリスト教というのはユダヤ教徒とあまり区別がつかず、大した重要性をもたない人的集団と考えられていました。しかし3世紀終わりごろともなると状況は変わってきます。キリスト教ギリシア・ローマの伝統的な文化への脅威として明瞭に意識されるようになってきます。

 その頃にポルフュリオスという新プラトン主義哲学者が『キリスト教徒論駁』という書物を著しました。今でこそポルフュリオスは論理学の入門書を書いた人物としてしかほとんど知られていないものの、当時は彼の『キリスト教徒論駁』は相当広く読まれ、大成功した部類の著作でした。ゆえに残存していません。

 ・・・つまりですね、この本はその後キリスト教が公認されて国教化されていくなかで焚書扱いされてしまったのです。だから広く読まれたからこそ残っていないという逆説的状況が出現しました。それでも彼を反駁するためにキリスト教徒が書いた著作にみられる引用や要約から、そのおおよその内容を復元することが出来ます。もしある本を残したくなければ、それに言及してはいけないし、まして引用など絶対にしてはいけないということがよく分かります。

 ポルフュリオスはキリスト教が聖書に記された啓示の宗教であることをよく理解していました。だから彼は聖書の信ぴょう性を掘り崩します。たとえば「マタイ福音書」の冒頭にある系譜は不合理だ。キリストの受難の記述が福音書間で食い違っているし、あろうことかキリストが最後に口にした言葉まで一致していないじゃないか(マルコ「わが神、わが神、どうして私をお見すてになったのか」ルカ「父よ、あなたの両手に、私の霊を委ねます」ヨハネ「成し遂げられた」)。「マタイ福音書」は旧約の「イザヤ書」を間違って引用していて、旧約に無知であることがよく分かりますね、などなど。この最後の点、逆にポルフュリオスがちゃんと旧約を調べていたことを意味します。

 聖書に現れる使徒像も批判されます。パウロとペテロは対立している。ペテロはキリストから「7の70倍まで」罪を許せと言われているのに、師を捕縛しにきた大祭司の僕の右耳を切り落とすっていうのはどうよ。アサニアとサッピラの死に際してのペテロの対応は彼の指導者としての資質を疑わせる(これはポルフュリオスに同意せざるをえない)。驚異的な新約の読み込み具合です。

 他にも批判は多岐に及びました。神が受肉するって、神は神でもまさか至高神が下りてくるということはないのではないか。デミウルゴスが降りてくるということになる。それはないわ。ロゴスたるキリストが、神と同等の地位に置かれているけれど、新プラトン主義的にはロゴスというのはオリジナルか、それからの派生ととらえられないといけないので、ロゴスがオリジナルではないが、しかしオリジナルたる神の派生でもないというのは理解に苦しむ。ここでポルフュリオスは三位一体の教義が位格の同等性を前提としていることを正しく見抜き、それを攻撃しています。この後父と子の同一性を批判するアレイオス派が「ポルフュリオス主義者たち」と呼ばれたことに、この批判のインパクトを見て取ることができます。

 世界にはじまりがあって、終わりがあるというのも新プラトン主義的には受けいられません。世界というのははじまりも終わりもないような被造物だというのが常識です。はじまりもないのに創造されたものだというのは、わけがわからないかもしれないですけどとにかく標準的なプラトン解釈でした。たとえば世界に終わりがあるとすると、そのあと神は、1) よりよい世界をつくるか、2) より悪い世界をつくるか、3) 同じ世界をつくるかです。よりよい世界をつくるなら、前の世界は最善じゃなかったことになって、神の全能性に反します。もしより悪いなら、神が善いものから悪いものをつくることになってこれも不合理。同じものをつくるなら、終わらせるだけ無駄じゃないか。最後に残る、4) 終わらせたあとは世界をつくらない、というのは聞くも耐えられないそうです。古代ギリシア人は形のないものを蠍のように嫌うので、不定形の素材の塊のようなものが残るなんて考えられません*1

 ポルフュリオスは意外にもキリストにはそれほど厳しくありません。彼が非常に敬虔な善きユダヤ人で、父なる神(そしてその神だけ)への信仰を説いて、その霊魂が神によって不死にされたということはありうると考えていたようです。ユダヤの神の観念も、至高の神は様々な伝統で様々な名で呼ばれ得ると考えていた新プラトン主義者たちにとってそれほど抵抗感はありませんでした。しかしやはりキリストが神であるというのは認められません。彼は人間です。

 このようなポルフュリオスの『キリスト教論駁』が303年よりはじまるディオクレティアヌスとガレリウスによる迫害とどう関係があるのかは分かりません。彼の議論が反キリスト教の議論のベースを提供し、迫害者たちにも用いられたであろうということは言えるとSmithはしています。

*1:以上の議論は正確にはポルフュリオスからとられた議論ではありません。しかしSmithはその骨子はポルフュリオスにまで遡りうると考えています。