カルダーノによる霊魂の不死性論 García Valverde, "The Arguments against the Immortality of the Soul in De immortalitate animorum of Girolamo Cardano"

  • José Manuel García Valverde, "The Arguments against the Immortality of the Soul in De immortalitate animorum of Girolamo Cardano," Bruniana & Campanelliana 13 (2007): 57–77.

 カルダーノの霊魂論を校訂した著者による貴重な英文の論考です。カルダーノは17世紀の哲学者たちから、霊魂の不死性を否定した無神論者であると非難されています。しかし彼が1545年に著した『霊魂の不死性について』を読むと、そこで個々人の霊魂の不死性が支持されていることがわかります。しかし確かに彼が認める不死性というのは特異なものでした。アリストテレスの議論の枠組みに依拠しながら彼が論じるところでは、知性のうち受動知性は身体と共に滅び、残るのは能動知性になります。受動知性が滅びる以上、残された能動知性には生前の記憶は一切残りません。また感覚器官がないので死後には個物を認識することも不可能になります。なにも受容しない純粋な能動知性だけが生き残るのです。しかもアリストテレスによれば世界は永遠なので、もし永遠に新たに霊魂がつくられ続けるならば、無限の数の霊魂が必要になります。しかしアリストテレスは実無限の存在を認めていません。したがって残された可能性は、有限の数の知性が肉体に宿っては死によって離脱し、また新たな誕生の際に肉体に宿るというプロセスを繰り返しているというものです。これはピュタゴラス派の輪廻転生の教えと同じであり、実際このピュタゴラス派の教説こそアリストテレスの霊魂論が支持していたものであるとされます。

 このようにカルダーノは『霊魂の不死性について』のなかで一応霊魂の不死性を支持しており、自伝のなかでも「霊魂が不死であることは知っている。しかしどのように不死であるかは知らない」と述べ、不死性を否定する無神論者とされるいわれはないように思えます。しかし『霊魂の不死性について』を実際に読むと、彼が霊魂の可死性を肯定しているような印象を受けることは確かです。というのもそこでは霊魂の不死性を否定する論証の長大な一覧が提示されているからです。彼の議論にとりたてて独創性があるわけではありません。議論の骨子は中世以来のものや、とりわけポンポナッツィにより持ちだされたものに依拠しています。たとえば世界が永遠で、霊魂が不死なら、無限の霊魂が要請されてしまう。知性認識と言えども感覚なしでは機能できないから、肉体の消滅後に知性が残ることは不可能である。実際、知性的霊魂とは、感覚霊魂の完成版に過ぎず、それゆえ特権的に不死性が与えられることはない。霊魂は一体なのだからその知性的な部分だけが生き残るとは考えられない。正義が実現されるためには死後の報いがなければならないというのも、不滅のものに報いを受けさせるすべはない。それに不死性を信じながら不届きな行いをする者たちがいた一方、エピクロス派のように霊魂の消滅を奉じながら有徳に生きた人々がいる。

 加えて反論のなかで霊魂の死後の複数性を否定するためにカルダーノが持ちだしてくる論拠は、彼自身が霊魂の可死性を奉じていると疑わせるものでした。様々な論拠によって、霊魂が死後複数性を保つことはできないことがわかるのだから、死後に残る可能性がある霊魂はアヴェロエスが支持したような単一の知性だけだというのです。しかしカルダーノは著作の中で繰り返し、アヴェロエスの知性単一説を否定しています。とすると残された可能性は霊魂は死滅するというものだけではないか?こう考えられても仕方ありません。

 個人の霊魂が(その個人としての特質を失いながら)残存し輪廻を繰り返すという学説にせよ、論理的に霊魂の可死性を導いてしまうと考えざるを得ない議論の作り方にせよ、確かにカルダーノの『霊魂の不死性について』は危険な書物であったことが分かります。