歴史学のニューロ・ターン スメイルとクーター "Neurohistory and History of Science"


 科学史の専門誌であるIsisの最新号では、「神経歴史学科学史 Neurohistory and History of Science」という特集が組まれている。この特集をめぐる研究会で議論した内容を忘れないようにここに記録として残すことにする。

 特集の中心にあるのはスメイルの論文である。主題はゴミ屋敷である。というよりゴミ屋敷の原因となっている溜め込み強迫(compulsive hoarding)という症状についてである。詳しい内容はこちらのブログ記事(これ)をみていただくとして、要するに次のようなことが書かれている。溜め込み強迫は認知機構の障害として起こる。よってこれは時間や場所を超えて普遍的に起こるはずだ。だが溜め込み強迫は近年生じてきた現象である。なぜか。それは同じ認知機構の障害が、現代の資本社会という感興のうちで溜め込み強迫として発現するようになったからである。溜め込み強迫はよって、人間の脳の状態と環境が構成するネットワークの産物である。

 スメイルはさらに、そもそも生物学的要因と文化的要因を分離することの誤りを指摘する。この誤りから生じる典型的な議論が、「受け渡しモデル」だ。人類史のある時点で生物学的状態が形成され、その後は人間集団間の違いは文化的進化によって生じるというものだ(生物学要因から文化的要因への「受け渡し」)。そうではなく、過去から現在にいたるまで、生物としてのわれわれと環境とは常に相互作用を続けている。生物としてのわれわれは安定していない(エピジェネティクスの知見がここで引かれる)。

 したがってこれからの歴史学は、環境から人間への影響と、影響を受けた人間からの環境へのさらなる影響を考慮していかねばならない。また神経科学もまたある現象の生物学的基盤を検証するだけでは不十分ある。溜め込み強迫の例にみられるように、ある機構の障害が発現する仕方は、環境によって変化するからである。歴史学神経科学を統合する神経歴史学が必要である。

 以上が特集に収録された論考の骨子である。だがスメイルが2007年に出版した『ディープヒストリーと脳』を見るならば、彼にはもうひとつの狙いがあることがわかる。それは一貫した人類史の構築である。現状の人類史の記述は分断されている。最大の分断点は、文字史料があらわれる以前の時代と以後の時代のあいだにみられる。通常の歴史学が扱うのは後者である。前者はたとえば考古学や古人類学者が扱う。この分断を統合する手段としてスメイルが提唱するのが歴史学において用いる史料の幅の拡張である。そうして拡張された史料のうちに脳が含まれる。過去の痕跡を何らかの形で記録している脳を史料としてとらえることにより、(人類は常に脳を持ってきたので)統合された人類史が可能になるというわけだ。この意味で、スメイルはジャレド・ダイアモンドやウィリアム・マクニールのような大規模な歴史記述をなしとげようとしているといえる。

 以上のスメイルの議論にたいして、数名の科学史家が批判的応答を行っている。ここではロジャー・クーターによるものをとりあげよう[ここからはかなり私の解釈が混じった記述になります]。クーターの批判を一言で表現すれば、スメイルのプロジェクトに参与することは歴史家(たとえば科学史家)から批判性を失わせるというものである。スメイルは神経歴史学のプロジェクトを提唱するという行為が持つ機能への反省性を欠いているというのだ。たとえばスメイルは、自らの行為が19世紀以来人間の認知構造を解明すると称してきた学問分野が行ってきたことを反復しているという事実に無頓着である。人間の認知機構の解明が持つ意味を重く評価し、その学問的・社会的意義を強調してみせることにより、その分野の権益を確保しようとしているのだ。これはいかにも科学史家らしい批判である。主に1980年代から、科学史研究者たちの多くは、真理を伝えようとする言明が、当該の真理の伝達からはみ出す機能を担ってきたことを明らかにしてきた。真理を語る行為に隠されたレトリカルな戦略を見落としてはいけないというのだ。

 ここでクーターが主題的には論じていないけれど、私にとって興味深い点を補足するなら、スメイルのプロジェクトが異なるディシプリンを統合したり架橋したりする利点を持つものとして提示されている点がある。サイモン・シャッファーが論じたように、新しい学問プロジェクトの多くはこの種の装いであらわれる。いわく既存のディシプリンは専門分化しすぎ、現実と無関連化し、有用性を失っている。それはもはや限界をむかえている。したがって諸ディシプリンを横断するインター・ディリプリナリーな営みを今こそ行なわねばならない。こうして「たこつぼ批判→もはや限界→今こそ分野横断だ」という行動様式が幾度となくくりかえされる。このような主張を額面通り受けとるだけでなく、むしろそのような様式のくりかえしを可能にしている条件と、くりかえしひとつひとつの背後にある動機をさぐっていかねばならないというわけだ。

 クーターはさらに議論を拡張し、神経科学の意義を説く行為には、ネオ・リベラリズムを支持するという狙いがあるという。ここの議論はとりにくいのだけど、おおよそ次のように考えているようだ。神経科学の立場から人間を理解することは、個々の遺伝子か個体かが、利己的な動機にもとづいて、自律的に動くものとして人間を観念することになる。これは金銭的利益だけを基準に、人々が動く市場をモデルに世界を理解しようとするネオ・リベラリズムに親和的である。このような世界理解は、ある個人の経験をその個人の行為の帰結とみなし、当該個人にのみ経験の責任を負わせることになる。そこではそのような経験を個人にもたらしたより大きな構造へ視野が広がらない。つまるところ、神経科学の意義を説き、ニューロ・ターンに賛同することは、(クーターはこういう言い方はしていないけれど)人を権力にたいして甘くする。批判的姿勢が失われる。これは歴史家にとって致命的である。

 以上の批判には一理ある。神経科学と歴史学の統合を説くスメイルに、科学史研究の成果を無視した反省性の欠如はあるかもしれない。またスメイルの議論が生物的条件への還元主義に滑りこみやすく、現状の社会状況への批判に向かう回路を閉じかねないという懸念にも共感はできる。

 しかしなぜクーターは、神経科学の方に向かわないことが、向かうことよりも批判的でありうると断定できるのだろう。ここで彼の議論に循環に近いものがあることに気がつかされる。簡単にいえば、彼は次のように議論している。神経科学の人間認識は本質的に批判性を欠いた営み(の一部)である。よって神経科学に与することは批判性の欠如をまねく。しかし神経科学による人間のあり方の探究が、かならず社会に対する批判性を欠いた営みであるという根拠はない。

 しかも状況によっては、神経科学に向かわないことこそが、批判性の欠如をまねく事態も考えうる。かりに経験的調査により、社会のあり方が人間の生物学的条件と環境とか相互作用し、互いに変化するなかで生みだされていると明らかになったとしよう。この可能性を否定する根拠は現時点では提出されていないように思われる。そこでもしその可能性が確証された場合、そのときには神経科学に向かわない姿勢は社会のあり方をとらえそこない、それゆえ批判性の欠如をまねくのではないか(最良の批判性はその時点で手にしうる最良の事態認識から導かれるという前提をここで私は置いている)。

 営みに反省性を持たせること、そこからその営みが有する(たとえば)政治的含意を自覚することの重要さを指摘するのは大切なことだ。しかしその自覚からただちに、その営みがそのような含意なり方向性しか持ちえないと結論するのは短絡である。そのような短絡をおかしてまでニューロ・ターンから人を遠ざけようとするクーターの言明には、あるいは職業歴史家としてのレトリカルな戦略が隠れひそんでいるのかもしれない。