- Peter Dear, "Science Is Dead; Long Live Science," Osiris 27 (2012): 37-55.
知識の移動を記述するときにいかなるモデルを用いるべきか。しばしば提唱されるネットワークと循環の二つのモデルを、独自の立場から整理記述した部分がDearの論考にあったので読みかえした(46–50ページ)。
科学とその歴史を理解するために、もっともよく用いられる比喩は「ネットワーク」である。科学哲学者のMary Hesseは、科学理論のうちでさまざまな概念が固定的な位置づけを与えられるのは、それらが相互に関係をもつことによると論じた。Barry Barnesは諸概念を結ぶリンクを社会的慣習として理解することで、社会的事象として科学を理解する道筋をひらいた。
このネットワーク理論には欠点がある。概念を結節点とするネットワークによってうまく説明されるのは、知識体系としての科学の側面であり、科学の制度的側面や実践の側面をうまくとらえることができないからだ。しかしこのような限定性は利点でもある。結節点とリンクを固定化することで、アクターネットワーク理論がおちいっているような曖昧さを回避できる。アクターネットワーク理論では結節点にいかなるものでもいれることができる。だがじっさいにこの理論を採用している場合でも、アクターとしてとらえられるのはおおくの場合人びとのネットワークである。これでは理論の特質をうまく生かせているとはいえない。また近年の「科学的モノの伝記 biographies of scientific objects」を書く試みは、人間でないアクターに注目する点で、アクターネットワーク理論におおくを負う。しかしこの試みは、どのモノに着目し(あるいはそれがそもそもモノといえるかを前提とし)、そのモノの性質はいかなるものであるかが現代の認識によって論点先取的に定められる危険がある。要するに、なにをアクターとみなすかがアナクロニズムによって決定されてしまうかもしれない。
アクターネットワークの提唱者であるブルーノ・ラトゥールによって提唱された「計算の中心 centers of calculation」というモデルも注目されてきた。科学ではおうおうにして情報が集約され処理される(諸)中心部があるという考えだ。これは西洋とそれ以外との断絶を前提とする見方を克服するために当初提唱された。しかしじっさいには科学が西洋のものだという認識を強化することになった(計算の中心は西洋にある)。これにたいしてKapil Rajは、近代性というものはヨーロッパから他地域に輸出されたのではなく、むしろ西洋人と他地域の人びととのあいだの相互作用のなかで生みだされたものと論じた。Rajが「コンタクト・ゾーン」と呼ばれる領域での接触によって、近代科学を形成することになる実践形態が生みだされたと考えるのだ。
ネットワークやウェブという比喩は、初期近代を扱う経済史家の着目点と共通するところがある。ウォーラーステインの仕事に刺激を受け、経済史家やその他の歴史家は、グローバルな交易ネットワークにおおきな注意をはらうようになってきた。このことが植民地主義と(すくなくとも)18世紀以降の科学知識のグローバルな規模での拡大への関心を科学史の分野で高めることになる。
この関心にそった研究ではしばしばネットワークにくわえて、循環(circulation)という概念が用いられる。モノや機器、そしてそれらを扱う実践の形態が交易ルートに沿って循環すると考えるのだ。しかしすくなくとも初期近代の科学では、循環という比喩はあまりうまく機能しない。たしかに機具なりリポートは循環しているもののその規模は経済における金には遠く及ばない。また観念は循環していないし、循環の結果増殖していない。このことはそもそもモノや金の移動によって富が生みだされるという経済における循環理論を、ほんとうに科学の記述に適用することができるのかに疑問を抱かせる。何かが循環することによって何かが増殖するという現象を科学に見いだせるだろうか。
技術、実践、スキルはそれを習得した人びとが移動することによっておおくの場合移動する。この過程は循環というよりネットワーク形成としてとらえるのが適切であるように思われる。19世紀における各種標準化を念頭におくなら、ネットワークに権威をもつ中心(結節点)を確立することは非常に重要な意味をもつ。この場合に意味をもつのは、循環モデルが強調したいフィードバックループによるダイナミックな変容というよりも、中央による行き届いた統制である。
循環モデルが説得力をもつようにみえるのは、じつは科学における自然哲学(理解可能性)の側面と、道具性の側面を混同していることに由来する。たしかに人は船に乗り、出発し、情報を集め、帰還し、分類する(あるいは計算する)。しかしそもそもなぜそのように分類しようと思うのか(あるいはそもそも分類することで世界を理解しようと思うのか)。人びとの活動を規制していた理念(自然哲学)はけっして集められるようなモノではない。循環は道具性の部分を記述するには適しているかもしれない。しかし科学における自然哲学の要素を説明するにはふさわしくないのだ。
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- Kapil Raj, "Beyond Postcolonialism . . . and Postpositivism: Circulation and the Global History of Science," Isis 104, 2013: 337-347. - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録
- 知の移動における循環モデル Raj, "Circulation and the Global History of Science" - オシテオサレテ
- http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/56981/1/review.pdf
- Dear, The Intelligibility of Natureをとりあげた有賀さんの書評。これを読むとDearの狙いを理解することができる。