時間のなかの視覚言語 Rudwick, "The Emergence of a Visual Language"

  • Martin J. S. Rudwick, "The Emergence of a Visual Language for Geological Science 1760–1840," History of Science 14 (1976): 149–95.

 科学史研究上の最重要文献のひとつを読む。すでに中尾さんが詳細な紹介記事をあげてくれているので、ここではいくつかの注目点を書きとめるだけにする。

 本論文の意義としてつねにまっさきにあげられるのが、科学研究における視覚的表現の意義を認め、本格的な研究対象とした最初期の研究だということである。著者であるラドウィック本人よれば、論文を出した直後は歴史に関心のある科学者には好意的に受けとめられたものの、歴史家からの反応はほとんどなかった。そのあとだいぶたってから最初は科学社会学者が、つづいてようやく科学史家が視覚表現の重要性を認めるようになったところで、この論文が「古典的」論文と(後知恵でもって)形容されるようになったということである。というわけで科学における図像の役割が論じられるときには、かならず本作品が注で引かれることになる。

 古典となった本論文をしかし単に主題設定の先駆性から顕彰するだけでなく、内実にまでたちいって学ぶべき点を引きだすならばどうなるだろうか。それをするときにまず着目すべきは、この論文が単に著者が視覚言語と呼ぶものの出現を記述しているだけでなく、その出現がひとつの学問領域が明確な輪郭をともなって形づくられたことと軌を一にしているという前提をおいている点にある(この点は論述のなかで説得力をもってしめされている)。その学問領域とは地質学のことであった。視覚言語は一定の読み方を要求する。そのような表現が広範にみられるようになるということは、その読み方が共有されたということであり、それはすなわち読み方を共有する学問コミュニティが成立したということだ。この前提があることにより本論文は、ある学問分野がいかに成立するかという科学史研究上の最重要問題とリンクすることになる。

 本論のみるべき点は、この問いにたいして視覚言語というこれまで試みられてこなかった経路から接近したというだけでなく、その接近を歴史学による模範的な手つきのうえでなしとげてみせたことにある。あたらしい視覚言語の登場という事態をまえにラドウィックはどう考えるのか。それがなにか認識論的な断絶をへて現れたとは考えない。変化はより漸進的に起きているはずだ。では変化の出発点はどこにあるか。あたらしい表現形式が生まれるとき、それはこれまで別の領域で実践されてきた形式を利用するというかたちで実現されるのではないか。このように問題を設定することで、地質学というディシプリンの形成にともなって現れたあたらしい視覚言語が、採鉱といった実用的活動のうちで制作されていた地図や断面図から着想を得ていることが発覚する(図像表現といってすぐに芸術作品に飛びついてはならない)。もちろんキュビエやブロンニャールはそのような着想源を詳らかにしない。調査の過程で大量の視覚表現をみるなかで、表現上の類似性をラドウィック本人がみてとったのである。これは元来古生物学者として、図像表現に慣れ親しみ、とりわけ異なる標本図像間での構造上の類似と相違に鋭敏な感性を養っていた著者の強みがでているところだろう。

 もう一つ本研究から学ぶべき点は、そうやって借用された視覚言語が、借用後に固定化するのではなく、むしろ時間の経過のうちで変化するということをも主題化しているところだ。この変化を著者は形式化(formalization)という術語で表現している。当初は比較的リアリスティックであった図像表現が、しだいに学問上の慣習や強調点にあわせていわばデフォルメされ、研究上の道具として最適化されていくということである。この変化の段階を著者は4つに区切り、それぞれの特徴を抽出している(topigraphical, distributional, structural, causal)。論述上の味噌は、この変化がまさに地質学という学問分野が成立する過程と重なっている点にある。学問の輪郭が定まり問題設定が浮かび上がってくると、理論上の強調点にあわせて図像表現も調整されるというわけだ(これはどうじにディシプリンのそとの人間には接近しがたい表現体系が確立するということでもある)。本論ではディシプリンの形成過程自体は詳述されていないものの、ラドウィックの研究の集大成である2巻本を手にした今となっては、いかなる学問分野の形成過程が図像表現の変化の背後にあったかは手にとるようにわかるようになっている。

 新たな事態の出現にさいして、その事態の着想源とも流用源ともなるような場所を探しもとめ、そこのつながりをあきらかにする。そうやって借用によって出現した事態がいかなる時間のうちでどう(いう段階をへてどう)変化したのか、それはなぜそのような方向に変化したのか。ラドウィックが本論でおこなっているのは煎じ詰めればこれらの問題に答えることに尽きる。この問いのたて方はあたりまえにみえるかもしれない。しかしそれに実際の史料を素材として答えてみせることは容易ではない。しかも忘れそうになるが、その素材はこれが書かれた当時には素材としてすら認知されていないものだったのだ。

 歴史学の核には時間がある。あるいは時間のなかでの変化がある。科学史研究で時間のなかでの変化を語ってみせた代表的研究としてはダストン&パークの畸形論があるだろう(そこでも畸形の観念が宗教上の状況やディシプリンの成立にあわせて変化していった過程が論じられたのだった)。この研究の魅力を語ってみせた「石版!」の言葉をわたしはこよなく愛しているのだが、それは本研究を形容するにもふさわしいよう思える。

思想史・科学史というジャンルはざっくり言って、過去の人びとが世界をどのように捉え、そしてどのように世界を記述したかをみていくものであり、喩えるならば「過去」という別世界の設定資料集を書き起すようなものである、と個人的に考えています。ただ、設定資料集のみを作るのであれば、動きのないファンタジーで終わってしまう。歴史として過去が紡がれていき、そのファンタジーの変化が語られたときに、初めて読んでいて面白いモノになるのです。世界の記述自体が物語と化す、というか。

キャサリン・パーク ロレイン・J・ダストン 「反−自然の概念 十六、七世紀イギリス・フランスにおける畸型の研究」

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