スコトゥスにおける神の自由と絶対的力 Veldhuis, "Ordained and Absolute Power in Scotus' Ordinatio I 44"

 神の全能性をめぐる議論の歴史のうちで、スコトゥスは特異な位置をしめてきた。彼は神の絶対的力の意味を変質させたというのだ。絶対的力とは本来、創造が必然ではなく神の意志に基づくと論じるための概念であった。創造のとき、神の力だけを考慮すれば、その力は現に創造された世界とは別様の世界をつくりえた。しかし神の意志を考え合わせるならば、神は世界が現にあるように創造されることを望んだのであり、その意味で現在の世界以外の世界が現実化される可能性はない。このように神の絶対的力は、創造の神意への依存を確保するため、決して現実化されえない可能性を確保するため呼び出されたものだった。だがこれがスコトゥスにいたって現実に作動しうる力として観念されるようになったという。すると現行の秩序とは無関係に神がその絶対的力でいかなる事態をも引き起こしうすることになる。これは神への信頼性を根底から失わせる学説であると倫理的、ないしは神学的な非難を招くことになる。

 この解釈と非難は正当なのだろうか。まずスコトゥスが神の絶対的力を持ちだす文脈は、伝統的な意図にかなったものだった。神の創造がその自由な意志によることを示すためである。神の力を単独で考えるならば、そこには彼が実際に創造した以上のことをなしうる可能性が開けている。そうでなければ神の創造は選択の産物ではなくなってしまう。スコトゥスが特異なのは、絶対的にとらえられた神の力に開かれた可能性を、単に過去の創造の時点ではなく、いついかなる時間にも開かれたものだと論を進める点にある。神の自由はいついかなるときにも確保されていなくてはならない。そうでなければ創造のあとに、神が必然性で縛られてしまうことになる。

 この点でスコトゥスが絶対的力が現実に作動する可能性を認める一歩を踏みだしたというのは正しい。だがそれははたして神への信頼性を失わせるものだったのだろうか。スコトゥスによれば、神に開かれている可能性は二通りある。ここに悔い改めていない罪人がいるとしよう。この罪人は神により罰せられる。しかし神は必然性にのっとって罰するのではない。罰は神の意志による。そういえるためには神にはこの罪人を罰しない可能性がひらかれていなければならない。そしてこの可能性は「すべての悔い改めない罪人は罰せられるべきだ」という神の秩序付けられた力によって定められた法の範囲内にある。

 一方もうすでに神の判断によって罰せられたユダをいまから救うのはどうだろうか。かつて神の判断によって一度罰せられたユダを救う可能性は、神の現行の秩序付けられた力のうちには含まれていない。だが神はその絶対的な力を行使して、現行の秩序とは異なる秩序を生みだし、一度罰せられたユダをいまから救うことを秩序にかなうようにすることができる。

 ここでのスコトゥスの議論には瑕疵があるものの、たしかにここでは神には現行の世界とは異なる世界を生み出す可能性がひらかれており、しかも過去の自分の行為をもキャンセルしうる可能性すらひらけている。これは神への信頼を失わせるに十分ではないか。だがまずこれらの議論はあくまで神の選択の自由を確保するためであったことに注意しなくてはならない。スコトゥスが強調したのは、罪人を罰することや、ユダをいまから救い出さないという神の行為が、神の選択の帰結であるということであった。罪人を罰さないことや、ユダをいまから救うことが神の選択の範囲内に含まれるのはこの主張のコロラリーである。その可能性の実現性自体に力点があるわけではない。そもそも可能性がひらかれているからといって、神がそれを実現させるとは限らない。また神に開かれている可能性のうちには、神の本質に反するものは含まれない。だからたとえば神が安息日の規定を変更する可能性はひらかれてはいるけれど、神が「神を愛せ」という戒律を変更する可能性はない。それは論理的に矛盾した事態を引き起こすからである。この意味で神の前に、神に本質規定上ふさわしくない行為の可能性まで含まれるとスコトゥスは考えない。端的に神は嘘をつくことはできない。

 以上からわかるように、スコトゥスの主な意図は、神の行為を神の自由意志の結果とすることであった。そのためには神が実際に行わない行為の可能性が神にひらかれていなくてはならなかった。そうでなければどうして神が実際に行ったりこれから行うことが選択の産物となりうるだろうか。こうして確保された可能性から実現可能性を読み込み、スコトゥスを非難するのは論理的には可能かもしれない。だがそれは彼の意図を考慮しない的外れな批判である。