神学の世俗化と近代科学の離陸 Funkenstein, Theology and the Scientific Imagination

Theology and the Scientific Imagination from the Middle Ages to the Seventeenth Century

Theology and the Scientific Imagination from the Middle Ages to the Seventeenth Century

  • Amos Funkenstein, Theology and the Scientific Imagination from the Middle Ages to the Seventeenth Century (Princeton, NJ: Princeton University Press, 1986), 3–22.

 諸学が神学のもとにまとめられていた中世が終わりをつげる。続く初期近代には科学が自立し、自律的活動領域となった。ここまではっきりと書くかどうかはともかくとして、このような歴史の見取り図をどこかで前提においている研究者は依然として多いと思われる。さらに言えばこのような前提は過去の一面を間違えなくとらえている(と私は思う)。

 これにたいして著者は異なる観点を提示する。初期近代に起こったのは神学の放棄ではなく、その世俗化(secularization)だというのだ。ガリレオデカルトライプニッツホッブズ、そしてヴィーコの書いたものをみれば、そこで神学的問題が頻繁にとりあげられていることがわかる。神、三位一体、聖霊、悪魔、救済、聖餐といった主題だ。世俗化とはこのような神学的議論がガリレオのような俗人によって担われるようになったことを指す。世俗化のもう一つ意味は、ガリレオデカルトらの神学的議論がこの世界の事象を主として視野にいれて行われていたことよりとられている。こうして俗人のてによって世俗化された神学は、この世界を扱う哲学と科学(自然哲学)と強く結合した。あとにもさきにも神学が科学とこれほど強い結びつきをもった時代はないと著者はする。

 実際中世にあっては、神学の領域は自然哲学の領域から鋭く区別されていた。神学はあくまで超自然の知識に関わる。この区別はある学問分野に固有の方法論を別の分野に持ち込むことを禁じるアリストテレスの学問観によって支えられていた。この区別が後期中世よりあいまいになりはじめる。学問の中心が大学以外の場所にも拡散したことを一つの要因として、神学の訓練を一切受けていない俗人が大量に学問に携わるようになった。彼らは大学における諸学の縄張り区分を気にかけることなく、神学の領域に手をつっこんでくる。プロテスタントの神学は「聖書のみ」を掲げ、これはだれであっても(もちろん俗人であっても)聖書を通じて真理にアクセスできるという機運を生む。さらにプロテスタントの出現は世界自体を世俗化した。現世は来世のための準備ではなく、現世での営みはそれ自体で独立した価値をもつようになった(ウェーバーテーゼを念頭に置こう)。そのなかで世界自体が神の神殿とみなされ、俗人がその司祭としてそのメッセージを読みとるという観念が生まれる。自然探究における数学の地位の向上は、学問諸分野間での障壁を破壊し、諸学を統一的な原理のもとに体系化するという野心を生んだ。

 著者はこのような神学の世俗化が、初期近代に生まれた新しい自然探究のあり方を可能にしたと考える。ここで著者は中世の自然哲学と初期近代の科学(のプロトタイプ)とのあいだに断絶があるか、連続があるかという論争を不毛なものとしてしりぞける。注目せねばならないのは、新たな考え方がしばしば旧来の考え方のうちで不可能とされたことを可能にするようなものとしてあらわれるということである。中世は不可能な出来事に関する理論を発展させていた。神の全能性からくる議論は、神は論理矛盾をともなうこと以外なら何でも行いうるという理論を生みだした。ここからあくまで想像のうえでは現実にはありえない事態をいくらでも想定することが可能となった。この想定されはしたが、しかし現実にはありえない事態を、初期近代の学問は(実験を主たる手段として)実現した。そのような事態は人工的な状況でしか実現しないけれど、しかしこの現実を理解するに不可欠なものなのだと主張するようになった。こうして中世の神学領域で発達した想像力に基づく想定が、その神学的議論を引き継いだ俗人たちによって初期近代に具現化されることで、近代科学は離陸したのである。これが著者のテーゼとなる。

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