神の全能性と世界の秩序 Funkenstein, Theology and the Scientific Imagination, ch. 3, #2

Theology and the Scientific Imagination from the Middle Ages to the Seventeenth Century

Theology and the Scientific Imagination from the Middle Ages to the Seventeenth Century

  • Amos Funkenstein, Theology and the Scientific Imagination from the Middle Ages to the Seventeenth Century (Princeton, NJ: Princeton University Press, 1986), 127–45.

 神の意志と世界の秩序の関係をめぐる問題が先鋭化したのは、11世紀にペトルス・ダミアンが、神は過去に起きた出来事をくつがえすこともできると論じたときであった。神はローマが建国されなかったとすることすらできる。この立場はただちに反論を引き起こした。アンセルムスによれば、限界なしの全能性を神に認めることは、かえって神の弱さを認めることになる。神はその全能性でもって自分自身すら破壊できるというのか?以後、ほぼすべての神学者・哲学者が神の意志は何らかの論理的一貫性に服するとみなすようになる。もちろん何が論理的一貫性を損なうかについては多様な意見が存在した。

 以後の神の全能性をめぐる議論は、その絶対的力と秩序付けられた力の区別にのっとって組み立てられていく。アクィナスによれば神の力を絶対的に、それ自体として考えれば、それは論理矛盾を含まない限りいかなることもなしうる。しかし秩序付けられたものとしての神の力は、諸事物のあいだに秩序が成り立っているような世界しかつくらない。これは秩序さえ成り立っていればいかなる世界をも神はつくるだろうということだ。では神はなぜ他ではないこの世界のあり方を選択したのか。それは人間にはわからない。人間の観点からすれば神の選択は必然的に恣意的である。

 アクィナスの議論のうちには、神の力を絶対的にとらえた場合、それが秩序にかなわないことを成し遂げうるという含意がこめられていた。これに我慢ならなかったのがスコトゥスである。彼は法学の術語を取りこんでこの含意を消し去ろうとする。一般人が盗みを行えばそれは法に反した行為だ。だが法を制定する王が盗みを働いたとすればどうか。王は自らの裁定で、その行為を例外扱いできるだろうし、さらに盗みを合法とするような法を制定しうる。よって王には定義上法に反した行為はしない。神も同じである。神の行為はつねに秩序にのっとったものだ。

 オッカムは議論を大きく変更する。アクィナスにとって、世界は実体形相がかたちづくる階層構造をなしていた。この構造が秩序である。この考えはアクィナスの認識論によっても下支えされていた。一方オッカムによると、世界には個物しかない。人間の側が措定した形相の秩序からなるとする秩序によって、神の創造行為の限界を定めるのは誤りである。こうしてオッカムは神の全能性と世界の側の偶然性(contingency)を強く主張したのであった。