ガリレオが提唱した特異な原子論が、自然世界への数学の適用という彼の科学方法論と不可分な関係にあると論じた論考である。ガリレオが原子論にもとづく物質理論を体系的に展開したことはない。しかし彼はいくつかの箇所で原子の概念を用いながら、自然現象を説明している。説明されたのは浮力であったり、物体の凝縮や膨張であったりした。たとえば物体が膨張できるのは、あらゆる物体が大きさを持たない無限の数の大きさを持たない原子から成るからである。なぜならこの無限の原子のあいだに無限の数のこれまた大きさを持たない空虚を挿入することで、物体をなす原子が「広大な空間に分散する」からである。
だが物体の凝縮や膨張を説明するだけなら、原子の数を無限にしたり、その大きさをゼロにしてしまう必要はないのではないか。ガリレオがこのような形で原子論を定式化したのは、彼が自然世界が数学的構造を有していると考えていたからであった。この構造上の類比があるがゆえに、現実世界における最小単位は数学における点のように考えなければならなくなる。点が大きさを持たず不可分であり、有限の線のうちに無限に含まれているように、原子も大きさを持たず不可分でありながら、有限の大きさの物体のうちに無限に含まれている。
無数の不可分者から連続体が構成されるという考えは、ガリレオの運動論にもあらわれる。ある瞬間の「速さの度合い」のことを彼は不可分者と呼ぶ。無限に分割されうる時間の各瞬間に対応する無限の数の速さの度合いがあるというのだ。だがガリレオはここから無数の速さの度合いを集めた物理量がなんであるかを導出することはできなかった。それには極限移行というガリレオがまだ手にしていなかった道具が必要であったからである。むしろガリレオは無限を扱うための方法と有限を扱うための方法を混同することをきびしくいましめている。
原子(不可分者)は連続体の構成要素でありながら、前者と後者を結びつけることがガリレオにはできなかった。これは「世界は本当に厳密に数学的構造をしているのか」という、ガリレオにつねに突きつけられ、彼自身も自問自答していた問いがもたらしていた困難の一部であった。それでも彼は世界の数学的構造を確信していた。なるほど世界が数学的に構築されていると論証によって示すことはできないかもしれない。だがすくなくとも実験によって現実世界のうちで数学的法則を実現させられる。これはガリレオを確信させるに十分であった。この信念に導かれるかたちで、ガリレオは大きさを持たない、無数に存在する不可分者としての原子を構想したのであった。