- 作者: 金森修
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2011/10/11
- メディア: 単行本
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湯川秀樹と朝永振一郎のノーベル賞受賞が示しているように、1925年頃から1950年前後までの日本の原子核・素粒子理論(及び量子電気力学)の研究は高い国際的競争力を誇っていました。しかしどうしてこのようなたいした実用性をもたない学問分野がたいした国力もない国で盛んに研究されたのでしょうか。そもそも西洋起源の科学をたとえ受容するにしても、そこから一歩踏み出して、受容するのみならず新たな成果を研究によって生み出しそれを発信していくということをなぜ日本の科学者は考えたのでしょうか。これはたとえば森有礼のような人物が、「ピュアーサイエンス」より「アツプライドサイエンス」に重点を置くべきだと考えていた、つまり国家サイドが必ずしも科学研究で創造的成果をあげることに重きを置いていなかったことを考え合わせるならば、やはり説明されなければならない事態です。
大きく分けて3つの要因が分析されています。一つは明治初期の知識人たちのメンタリティです。彼らは初期の教育を江戸時代の藩校に由来する教育機関で受けていたため、伝統的な日本の学問と高等教育で習う西洋由来の学問の違いに非常に敏感でした。その中でも政治や倫理の分野では遅れを感じなくとも科学の分野では西洋に対する劣位を強烈に感じざるを得ませんでした。しかし同時に科学という領域は成果さえあげれば日本人ですら評価されるだろうという寛容さを備えていました。そのため彼らは西洋に対する知的挑戦の場として科学研究を選んだのです。
二つ目の要因は制度的なものです。日本の大学は工学部と農学部が理学部と対等な学部として設置されるという特殊性をもっていました。この構造により、理学部で学ぶ者たちは応用の分野は工学部と農学部に任せ自分たちは実用性につながらない真理の探求を行うのだという住み分けの意識を持つことになります。
これらに加わる最後の要因は、量子力学という分野の特性です。この分野の誕生は理論研究の裾野を広げると同時に、それまでの研究伝統とは切り離された新たな探求の領域を生み出しました。このため特に研究伝統がない日本でも、頭の良さと(旧制高校で培った)語学力を武器に、先端的論文を読みこみ、それを理論的に発展させれば世界の最先端の研究に直結することになりました。