ガリレオ vs. アクシデント Koertge, "Galileo and the Problem of the Accidents"

 ガリレオの科学方法論を扱った古典的論文である。アリストテレス以来のアクシデント(accidents)の着想をガリレオは独自に読みかえていた。彼は主に3種類のアクシデントを区別している。一つは斜面やそこを転がされるボール表面のデコボコのようなものである。あるいは投射体に働く空気抵抗だ。このような不規則性を人間は定量的に扱うことはできない。次に観察者に由来するアクシデントがある。昼よりも夜に月かあかるく輝いているように見えることなどだ。最後に事物を数学的に記述したときと、実際の事物が一致しないことがアクシデントとなる。これらのアクシデントによって、私たちは世界を正しく認識することを往々にして妨げられるとガリレオは考えていた。というのもこれらのアクシンデントの存在により、世界の数学的記述(ガリレオの考えではこれだけが唯一確かさをもった記述形態である)と実際の自然の振るまいとのあいだにくい違いが生じるからである。

 このくい違いにどう対処するかをガリレオは考えていた続けた。とはいえ、最初からガリレオが問題を認知していたわけではない。その初期の草稿においてはアクシンデントの問題は現れない。経験に基づいて自然を数学的に記述せねばならないと言われるのみである。1590年の「運動について」になると、アクシデントによって数学上の記述と実験で確かめられるふるまいのあいだに齟齬が見られることをガリレオが問題視しはじめたことがわかる。そこでのガリレオの解決策は、考えられるアクシデントを列挙して、それらがない状況を想像してみよというものだった。その仮想的状況ではきっと数学的記述と事物の振る舞いが一致するはずだ。

 だがガリレオは仮想状況の想定では満足しなかった。続く著作では、アクシデントを想像のうえではなく、実際に除去するにはどうすればよいかと記述が現れる。たとえば摩擦の少ない表面を使え、というように。もう一つこの時期にあらわれる方法論的指針としては、微小なアクシデントであれば無視せよというものであった。

 だがなぜそのアクシデントを無視できるのか。そもそもそれがアクシデントであるとどうして判定できるのか。この問いにガリレオは浮力の問題を扱うにいたって答えを与える。浮力問題においては、アクシデント自体が重要な論点であった。水のうえにあるものが沈むか沈まないかは主に浮かべられるものの形による、という主張にガリレオは反対する。浮き沈みを決定するのは一定のカサあたりの重さである。形は浮き沈みを多少は左右するかもしれない。しかしそれはアクシデントに過ぎない、というわけだ。このことを検証するためにガリレオは、蝋と錫を用意する。蝋はその形を自由に変えて水に浮かべることが可能だ。さらに蝋のうちに入れる錫の量を調整することで、カサあたりの重さも増減させることができる。これによって形とカサあたりの重さを自由に変えて、蝋人形を水に浮かべることができる。その結果何が起こったか。浮き沈みを決めるのは重さである。形ではない。形はアクシデントである。よって形のことを考えずに、重さだけを考えて浮力を考察するという理想化は正当なものである。ここにおけるアクシデントへの対処は、それを除去するのみならず、そもそもアクシデントとみなされるべきものはなにであるかをも決定することが可能なものとなっている。

 ガリレオは続いて、アクシデントであるとはいっても、それが自然現象の性質を根本的に規定している可能性があると考えるはじめた。それは潮の満ち引きの問題をめぐる彼の洞察にあらわれている。詳しい説明は省くが、ガリレオは満潮と干潮のリズムは地球の運動からだけでは説明できないとし、それを説明するには海底面の形状や、海とつながっている川の存在といったアクシデントが考慮されねばならないとした。ガリレオはこのアクシデントの作用を細かく検証するのは自分の仕事ではないとしている。もしそれが細かく検証され、定量的に議論できるようになれば、それはもはやアクシデントではないだろう。ガリレオの議論はここでそもそもアクシデントというカテゴリーを消去する方向に向かっている。

 晩年の著作では以上のようなガリレオの考察の集大成が見られる。アクシデントが小さい場合は、それを無視せよ。実験的に手段によってそれを除去、ないしは無視できるほど小さくせよ(そして無視せよ)。さらに次のような推論が現れる。確かに空気抵抗を除去することは人間には完全にはできない。だから物体はその重さにかかわらず等しい時間で等しい距離を落下することを正確に実現はできない。だがもし媒質の密度を薄くすれば薄くするほど、重さによる落下時間の差が縮まっていくことがわかれば、媒質がなくなれば落下時間の差がなくなると考えるのは理にかなっているだろう。

 アクシデントをめぐるガリレオの洞察は静的なものではなく進化を遂げていた。問題に気がついていなかった状態から、問題に気がつき、アクシデントを列挙して、それがない状況を仮想的に想定せよ、という解決策にまず至った。続いて小さなアクシデントを無視したり、それを除去する解決が考案され、さらに何がアクシデントであるかを実験的に検証することも行われた。続いてアクシデントが無視できないほど大きい場合に、それを現象の説明に活用することがなされる。最後にはアクシデントの程度を調整することで、アクシデントがなくなったときに何が起こるかを推定させるにいたった。

 自然を数学によって定量的に記述し始めたとガリレオは言われる。たしかにそうだ。だがそのやり方は一様ではない。ある同時代人がそうしたように、アクシデントをいっさい無視したり取り除いたりすることなく、現象の記述に含めていく方法もあった。だがこれは数学的記述を実質的に不可能にする。別の極にはデカルトがいた。彼は世界にあるはずの数学的構造を重視するあまり、自分が定式化した衝突の法則が現実と乖離していても意に介さなかった。ガリレオはこの二つの極のあいだを行こうとした。数学的記述の厳密さと確実さをうしなうことなく、しかしその妥当性を現実から確認するためにはどうすればいいのか。そのために彼はアクシデントの問題に取り組み続けたのである。現代ではアクシデントという言葉こそ使わなくなったかもしれない。だがいぜんとして科学実験はガリレオが考案した方法にそって行われているのである。