24年の断罪と原子論 Kahn, "Entre atomisme, alchimie et théologie"

  • Didier Kahn, "Entre atomisme, alchimie et théologie: la réception des thèses d’Antoine de Villon et Etienne de Clave contre Aristote, Paracelse et les "cabalistes" (24-25 août 1624)," Annals of Science 58 (2010): 241-86.

 フランスにおけるパラケルスス主義の専門家による、17世紀前半のとある事件に対する再評価をせまる論考である。1624年の8月23日に、パリのとある貴族邸宅で錬金術にかかわる14の命題が弁護された。起草者のうちにはエディエンヌ・ド・グラーヴとAntoine de Villonがいた。この命題をとなえた集会はただちに議会により解散を命じられた。またソルボンヌは命題群を断罪した。

 科学史のヒストリオグラフィのうちでは、この命題群は原子論の支持を打ちだしたものとして知られている。そこでは元素が相互に変換されるというアリストテレスの考えが否定される。むしろ変化しない原子を想定べきだ。すべては原子の結合から生じ、原子へと分解される。原子の種類は五つであり、水、土、塩、水銀、硫黄である。こうして錬金術の伝統に由来する原理の理論と、原子論を組み合わせることで、アリストテレスの質料形相論を廃棄することが目指された。

 まず錬金術の伝統に立つこれらの命題の起草者たちがいかにして、原子論の立場から理論を定式化するにいたったか。これに関してはまず古代より伝わる錬金術文書のうちに、デモクリトスの名を冠したものがあったことが指摘されねばならない。それゆえ当時の錬金術師たちはしばしば自らの技芸が古代より続く由緒ただしきものであると主張するために、デモクリトスの名前を引き合いにだしていた。この錬金術文書の作成者としてのデモクリトスと古代の原子論者のデモクリトスが混じりあうことによって錬金術の伝統のうちにデモクリトスの原子論を引き入れることが可能となった可能性がある。著者はとくにジャン・リオランによるジョセフ・ドゥシェーヌへの反論のうちで、デモクリトスが引かれたことに着目している。

 もうひとつJean d'Espagnetという人物が書いたEnchiridion Physicae restitutaeという書物が命題群の典拠のひとつとなった可能性がある。デモクリトスに基づいて原子論を展開した箇所を含むこの著作は、ほかにも24年の命題群と共通する学説を提示している。d'Espagnetの著作の詳細な検証が今後必要となるだろう。

 続いて科学史のヒストリオグラフィが問題とされる。科学史家たちはなによりも原子論を支持した文書として24年の命題群に注目してきた。だが同時代人の反応を検証するとそれとは異なる描像がたち現れる。命題群に反論した人々はたしかにその原子論的物質理論にも反論した。だが反論はあくまで自然哲学上の問題、ないしは化学操作にかかわる技術的な問題としてなされている。たとえば24年の命題は実験により五原理が原子であると証明されているとするが、化学操作によりとりだされる水銀は実際には混合物であるといった批判である。原子論の支持が神学的問題を惹起するというようなことは言われていない。原子論の支持自体は激烈な反応の原因ではなかったと考えられる。原子論が聖餐の否定につながるのではないかとみなされるようになるのはより後の展開である。

 ではどうしてこの命題は激しい反発を招き断罪されるにいたったのか。当時錬金術をめぐる論争が数多く起こっていたからといって、命題が錬金術の伝統にたっていることをもって、反発を招いた理由としてはならない。そのような証拠はない。そうではなく命題が断罪された原因はそこで宣言されていた強力な反アリストテレス主義であった。この姿勢が当時自由主義思想への弾圧を強めていた当局の警戒を招いたのであった。