アヴィセンナにおける元素、混合、形相付与者 Stone, "Avicenna's Theory of Primary Mixture"

 アヴィセンナの哲学を貫く根本的な前提を、元素の混合という問題を切り口に明らかにした重要な論考である。以後のアヴィセンナ研究は本論と接続されねばならないと感じる。

 アリストテレスの物質論は、四元素を基礎にし、それらが組み合わさってより複雑な物質を構成していくというものであった。だがこの構想と、彼の質料形相論をどう両立させるかは困難な問題を引き起こしていた。まずアリストテレスの四元素は、四性質の組みあわせであった。たとえば火は熱・乾から成立する。そうすると火を火たらしめている形相は、熱と乾の組みあわせにほかならないのだろうか。だが火なり水なりといった四元素はたとえば量という性質をかならずもっている。このような性質がどうして熱と乾の組みあわせから生じるのか。また熱と乾は事物に付帯する性質であり、このような付帯性(accidents)が事物の本質である形相を構成するなどということがありえるのか。今度は四元素の組みあわせを考えてみよう。同程度の強さの火と水が混ざるときには、両者の混合(mixture)が生じるとアリストテレスは考えた(片方が他方より強いと、強いほうが弱い方を同化する)。だがアリストテレスの原則によると、二つの事物が真の意味で混じりあうことはない(不可入性の原則)。よってこのときに混じりあうのは、火と水が持つ性質だけとなる。だがこう考えるなら、混合物は真の意味では一体の事物ではなくなってしまわないか。また事物が組みあわされると様々な性質が生じる。たとえば色や匂いといったものから、果ては磁石の磁力といったようなものだ。これらの性質ははたして基本的な性質の組みあわせから生まれうるのだろうか。基本性質から構成される四元素をどう組みあわせても、色や匂いや磁力といった性質は生まれないのではないか。

 このような問題をアヴィセンナは、性質(付帯性)と実体の性質を新たに定式化し直すことで一挙に解決しようとした。正確にいえば彼は新たな定式をファーラービーのなかに見いだし、それをさらに展開したと言える。その新たな定式とは、実体と付帯性とを厳格に区別するというものであった[これが流出論の基礎にもなる]。実は古代においてアフロディシアスのアレクサンドロスやガレノスが、この両者の境目をなくしかねないような議論を行っていた。元素の形相はそれがもつ性質の組み合わせにほかならない。元素が混じりあってできた混合物の形相は、それらの元素がもつ性質が相互に混じりあってできた調和状態にほかならない。この立場に立つならば、元素の混合というのは、ようするに性質の混合のこととなる。だがこのように性質(付帯性)から実体(形相)が構成されるという考えをアヴィセンナは断固拒絶した。元素の形相と元素の性質は異なる。元素の性質とは元素の形相が生みだす結果にすぎない。同じように元素が持つ量といったその他の性質も、元素の形相の効果である。

 こうして厳格に実体を付帯性から区別し、これを二つの実体は決して混じり合わないという原則と組みあわせる。すると次のような結論が出る。何かと何かが混じりあうときに、本当に混じりあっているのはそれら実体が生みだしている効果としての性質だけである。実体同士は決して混じり合わず、そのままの状態で混合物のなかで保存されている。アリストテレスが混合の際に、構成物質の「可能態が保存される」と書いているのは、「形相が保存される」と解釈されねばならない(この解釈にはアラビア語の翻訳問題が絡んでいるようだ)。だがこうすると混合物は一つの事物でなくなってしまうのではないか。その通りである。それは実体の観点からすれば一つではない。それが一つであるのは、性質が混じりあって一つの性質を生みだしているからである。それで何の不都合があろうか。私たちが知覚できるのは性質だけである。よって私たちからみれば、混合物は一つの事物なのだ。

 色や匂いといった性質の問題はどうなるのだろう。これらの性質は、基本的な性質がいくら組みあわさっても生まれないのではないかという問題であった。アヴィセンナによれば、もちろん生まれない。人間が手で触れ感じることのできる熱・寒・乾・湿という性質から、触覚ではとらえられない色が生じるわけはない。ではどこから生じるのか。混合物が持つ新しい形相からである。だがアヴィセンナによれば、混じりあうのは性質だけであり、性質からは決して実体は生じない。では新しい形相はどこからくるのか。形相付与者からである、というのがアヴィセンナの答えであった。事物が混じりあうとき、性質が混じりあう。この混じりあった性質がしかるべき状態に達すると、新たな形相が事物に与えられる。こうして元の事物は元来の形相を保持しながら、混じりあった一つの性質を効果として持つ新しい実体形相をも有するようになる。こうして混合物が生まれる。

 これは色や匂いや磁力の説明になっているのだろうか。ある意味ではなっていない。磁石が磁力を持つのはなぜか。それは磁石が磁力を効果として持つような実体形相を有するからである。このような答えになっているからだ。これは同語反復であり、説明ではないのではないか。だがアヴィセンナに言わせれば実はあらゆる説明とはこのようなものである。火が事物を温めるのはなぜか。それはそのような効果を発するような形相を火が持つからである。もし人がこの説明で満足するならば、どうして磁力が磁石の形相から生みだされるという説明に満足しないのか理解できない。

 単純な事物から複雑な事物が構成されることを、質料形相論の枠組みでいかに説明するかというのは古代以来の難問であった。これにたいしてアヴィセンナは実体と付帯性のあいだの厳格な区別を想定することで、一定の回答を与えてみせた。その影響力は絶大であった。私たちが感覚できるのは形相の効果だけである。私たちは感覚でとらえられる効果から遡って、形相を想定する。形相自体がいかなるものであるかはわからない。このようなアヴィセンナの根本認識こそ、17世紀の自然哲学者たちがスコラ学の中核として破壊しようとしたドグマであったのだから。