オイディプスの結末と文献学の伝統 Finglass, "The Ending of Sophocles’ Oedipus Rex"

 ソフォクレスの『オイディプス王』は最も有名なギリシア悲劇である。同時に非常にやっかいなテキストである。ソフォクレスは基本何をいいたいのか謎という根本的な問題はともかくとして、『オイディプス王』の末尾は後代になされた挿入ではないかと疑われているのだ。しかも疑いがかけられている部分は100行以上にわたる(1421-1530行)。この挿入説は、現代を代表するソフォクレス学者の一人であるR. D. Daweによって支持されている。Daweはその論文と、『オイディプス王』への注釈書のなかで、なぜこの箇所が挿入とみなされなければならないかを論じている。本論文でFinglassは、Daweが挿入説の根拠として挙げている言語表現上の問題を再検討することで、言語上の問題から末尾(1424-1523行)を削除することはできないと反論する(一方、1524-1530行についてはDaweの見解に同意し削除すべきとしている。ちなみにこの部分もLloyd-Jones and Wilsonの標準的校訂版では保持されている)。

 悲劇の言語をめぐるテクニカルな議論は私にはわからない。むしろ興味深く読めたのは、論文の付録部分だ。ここで著者は末尾の挿入説を唱えたのははたして誰が最初であったのかという問題にとりくんでいる。Daweはこの箇所への疑義は、1857年にSchenklによって提唱されはじめたと書いている。だが実際にはこの疑義はさらに100年以上前の段階ですでに提起されていた。アカデミー・フランセーズの会員であったJean Boivin de Villeneuve (1663-1726)が1718年に行った講義である(出版は1729年)。この時代のフランスが、ギリシア悲劇の研究について大きな貢献をなしたとは一般的には考えられていないため、この事実は驚きである。Boivinの疑義は、Heathの1762年の著作で議論の対象となった(Heathは挿入説を否定している)。このHeathの著作が称賛を集めながらも、実際にはBrunckの1786年の著作を通して間接的にしか消化されてこなかったために、ソフォクレス学の歴史は歪んだかたちで伝わることになった。その結果の一つとして、Boivinの貢献が忘れさられ、あたかも19世紀ドイツに挿入説が誕生したかのように記述されるようになったのである。この事態をまえにFinglassは、「『オイディプス王』末尾の真正性に異議を唱えてきた者たちは、互いの書き物をほとんど読んでこなかった」というDaweの言葉は、「彼が理解しているよりも真実をより深くとらえていた」と述べている。

 Finglassの主張を一言でいうなら、今後『オイディプス王』のテキストのアパラトゥスには、"1424-1530 del. Boivin"と書かれねばならないということになる。文献学者として当然の結論だ。だがここでの彼の議論は、文献学の実践そのものであると同時に、古典文献学の学問史にもなっている。この点で彼の着眼点はアンソニー・グラフトンが『テクストの擁護者たち』で全面展開したそれに似ている。この著作の最終章でグラフトンは、フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフ(Friedrich August Wolf, 1759–1824)をとりあげている。その著名な『ホメロス序説』(1795年)を歴史的に理解しようとするならば、以前のフランスや英国での文献学の伝統、さらには人文主義に直結する初期近代の文献学者たちの成果を視野にいれねばならないというのだ。グラフトンもFinglassと同じく、古典古代学が19世紀にドイツでとつぜん無から生まれたという認識をくつがえそうとしている。ここで古典学の本体と古典学の歴史から過去を理解しようとする営みが交差しているのである。

 Finglassによると、伝承テキストに関してなされている提案について、それを誰が最初に発したかという認識は古典学のなかで混乱をきわめている。『オイディプス王』の末尾は氷山の一角にすぎない。この混沌を解消するためには、もう一度古典学の伝統をたどりなおさねばならないとFinglassは言う。今後数十年の古典文献学を支配するであろう研究者がこのような認識にあるとするなら、文献学と知の歴史が出会う余地はまだまだ残されていると言ってよいだろう。

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