霊魂の器官としての精神 Schegk, De plastica seminis facultate, bk. 3, #6

  • Jacob Schegk, De plastica seminis facultate libri tres (Strasbourg: Bernard Jobin, 1580), sigs. H1r–H2r.

 感覚能力と複合体を形成している受動知性があるために、人間霊魂は(というより人間は)本質的にひとつのものとして感覚し、かつ思惟しているといえる。このとき感覚は感覚のための器官をもちいて感覚し、思惟は思惟のための器官をもちいて思惟する。だがこうして感覚にわりふられた器官と思惟にわりふられた器官がわかれてしまうと、思惟と表象とのつながりがきれてしまい、思惟が思惟対象となる形象をつくりだせないのではという疑念が生じるかもしれない。しかしこの懸念はあたらない。実際、同種のことは感覚でも起きている。というのも別々の感覚器官によって霊魂は聞き、見て、触れる一方で、それらとは別の共通感覚によって諸感覚を使って、感覚経験を比較しているからである。これと同じように、思惟のさいにも感覚経験からえられたものを、感覚とは別の器官をもちいて霊魂は思惟可能なものとし、それを思惟することが可能である。では思惟のための霊魂の器官とはなにか。それはアリストテレスによれば精神であるとシェキウスはいう(nam et νοῦν ipsum, seu mentem, organon animae appellat Aristoteles)。この精神が感覚経験を素材に、思惟可能な対象(知的形象)をつくりだす。

 よってやはり知性には realiter に区別されるふたつがある。ひとつは能動知性であり、ひとつは感覚能力と複合体を形成する受動知性である。これらは realiter には別で、essentialiter にはひとつの事物を形成している。またそれはともに質料から分離している。というのも思惟可能なエイドス(知的形象)は、真なるものであるからして不変であるのにたいして、物質的なものはすべて可変的だからである。