知性認識と原罪 Schegk, De plastica seminis facultate, bk. 3, #7

  • Jacob Schegk, De plastica seminis facultate libri tres (Strasbourg: Bernard Jobin, 1580), sigs. H2r–H3r.

 realiter に異なる二種類の知性のうち、感覚能力との複合体である受動知性は、永遠ではないし、身体からも分離していない。それが永遠でないのは、複合物はかならず分解されるからである。これにたいして能同値性は、不死であり、分解されえず、身体からは分離している。それは純粋で単純な知性であり、すべてを知ることができる。

 ここでひとつ問いが浮かぶ。知性はどうして身体のうちにあるときには独力ではなにも認識できず、身体のそとにでるとすべてを認識できるのだろうか。これは身体のうちにあるときには、身体という鎖によってすべてを認識するという知性の能力が妨げられているからだ。ちょうど目を覆われた人が目を覆われるとなにも見えなくなるのと同じである。そうしてみえないときでも、見る能力は失われておらず、実際目から覆いがとられるとすべてを見ることができるようになる。知性も同じように身体から開放されればすべてを認識できるようになる。

 ここからプラトンは身体を墓場や牢獄にたとえることになった。シェキウスはこれを人間知性が原罪に歪められてしまった帰結として理解する。私たちのうちにある神の像は、原罪のために身体によって押しつぶされてしまっており、認識のための力を奪われてしまっている。このため身体のなかでの知性は事物のウーシアを認識することはできず、感覚のたすけによって実体の付帯性を理解するにとどまっている。