書物としての自然という比喩が、デカルトとモンテーニュのなかで、どの点で同じようにあらわれ、どの点で異なるもちいられ方をしているかの検討を通じて、両者の特質をあきらかにしていく論考である。ここでは第4節までをまとめよう。
キリスト教文化圏にあって、自然(世界)という書物は、長きにわたって寓意的解釈をほどこすべき対象であった。しかしこの解釈の試みは、デカルトやモンテーニュが標榜した「神学的絶対主義」にあっては放棄される。神の力能の包括的理解が断念されるのだから、自然からその書き手である神にさかのぼることはできない。
よって、世界という書物という考えが、デカルトとモンテーニュにあらわれるとき、それは寓意的解釈の対象ではない。その書があきらかにするのは神についてではなく、むしろ人間社会のありかたである。そこから学ぶべきは社会で生きうえでいかなる判断をくだしていくのが望ましいかということである。
だがデカルトとモンテーニュにおいて、世界という書物がおなじ機能をはたすわけではない。たしかに両者ともに、世界という書物を本来的な意味と関係させて導入する。しかしそこに付される意義は異なる。デカルトにとってはそれら書物はともに価値がない。なぜなら過去に書かれた書物は時間軸にそって人びとの考えが一致しないことをあきらかにし、世界という書物は空間軸にそって人びとの意見の不一致をあきらかにするからである。どちらからも明晰かつ判明な認識はもたらさない。これにたいしてモンテーニュは、世界という書物の価値を否定することなく、それを本来の書物を補完するものとして導入する。
この対比に反映されているのは、私と世界の関係についてのデカルトとモンテーニュの対照的な理解である。たしかに両者とも私という書物を読むことを標榜している。しかし二人はその書物が世界を前提とするかしないかでわかれる。デカルトにとって、私という書物は、私の外部の書物を前提としない。むしろ外部を懐疑に付して私を研究したあとで、はじめて知識の対象となりうる外部の世界がたちあらわれる。ここから既存の書物は、本来的なものであれ、世界としてのそれであれ拒否される。これにたいしモンテーニュにとって、私が行う判断は外部の世界を前提としている。よってモンテーニュはふたつの書物をともに手放さない。