ニュートンとスコラ学の軽い関係 Newton and Scholastic Philosophy

  • Dimitri Levitin, "Newton and Scholastic Philosophy," British Journal for the History of Science, FirstView Article, 2015.

 ニュートンとスコラ哲学の関係について再考をうながす研究論文を読む。ニュートンがスコラ哲学を学んだ証拠は、彼が学生時代にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジでつけていたノートである。そこからはヨハンネス・マギルスやダニエル・シュタールの教科書を読んでいたことが分かる。しかしそこからニュートンがなにか重要なことを学んだとは考えられない。これらの本はきわめて初歩的な教科書であったからだ。

 また近年では『光学』の重要な箇所が、スコラ学の伝統、具体的にはザバレラの後退(regressus)の理論を踏まえたものだと主張されている。問題となっているのは疑問31である。

数学と同様、自然哲学においても、難解な事柄の研究には、分析の方法による研究が総合の方法につねに先行しなければならない。この分析とは、実験と観測をおこなうことであり、またそれから帰納によって一般的結論を引き出し、この結論に対する異議は、実験または他の確実な真理からえられたもの以外は認めないことである。なぜなら、仮説は実験哲学では考慮されるべきではないからである。実験と観測から帰納によって論証することは一般的結論の証明にはならないが、しかもなおそれは事柄の性質からみて許される最良の論証の仕方であり、帰納が一般的なものであればあるほど、有力であるとみなすことができよう。そしてもし現象から何の例外も生じなければ、その結論は一般的に成立するといってよい。しかしもしその後何らかの例外が実験から生じたならば、そのとき初めてこのような例外があるものと明言してよい。この分析の方法によって、われわれは複合物からその成分へ、運動からそれを生じる力へ、一般に、結果からその原因へ、それも特殊な原因からより一般的な原因へと進むことができ、ついには最も一般的なものに到達して論証は終る。これが分析の方法である。そして総合とは、発見され、原理として確立された原因をかりに採用し、それらによってそれらから生じる諸現象を説明し、その説明を証明することである。

 この分析から総合という方法論は、伝統的に数学の手法を自然哲学に適用したものと考えられてきた。しかし近年、この見解に異議をとなえる研究者が現れている。というのも、1. ニュートンの自然哲学は原因に基礎を置くものなので、原因に関わらない数学の手法とは相性がわるい。2. むしろニュートンはここでザバレラの後退の議論に依拠している。3. 具体的にはサミュエル・スミスの論理学入門にある解説をソースとして使っている。

 だがこの異議は受けいれられない。ニュートンがサミュエル・スミスを精読したという証拠はない(むしろしていないと証拠は示唆している)。ニュートンがもちいる語彙も、その議論の基本構造も、ザバレラのものとは大きく異なる。

 最後にニュートンの自然学が原因に基礎を置くという理解は正しいのだろうか。反対にニュートンは、重力の原因はわからないとくりかえしのべていた。原因ではなく、重力の性質(properties)だけを知っているというのだ。原因ではなく性質という議論は、色についての論文でもなされている。原因についてニュートンが語るのは多くの場合、第一原因としての神が議論の背後にあるときである(上記疑問31もそうである)。

 この点は、形而上学の拒絶というニュートンの基本的姿勢とつながっている。ニュートン形而上学として、神と世界がどう関わっているかを論じることを強く警戒した。このような形而上学が、現象を超えて原因の確定へとつきすすむことによって生じてしまうとニュートンは考えていた。

 だが一見ニュートンが、世界と神との関係について積極的に語っている箇所がある。たとえば神の遍在は力能的(virtually)ではなく、実体的(substantially)に理解されねばならないという『プリンキピア』の一般注解の箇所である。しかしこれは単に伝統的なスコラ学の否定にすぎない。スコラ学では、非物質的な存在者がそれでも一定の場所を占めるというということを説明するときに、その場所をなんらかの物質がしめる部分としてではなく、その存在がその力能を行使する場所として理解するということが行われていた。神の存在をこのようなかたちで理解してはいけないとニュートンは言うのだ。

 またニュートンが1671年にケンブリッジ大学で行った講義に基づくと思われる「重力について」という文書では、空間とは神の「流出的結果 emanative effect」だと言われている。しかしこれも単に、スコラ学の議論を反復しているだけである。スコラ学では、ある存在の存在が直接引き起こす効果を「流出的結果」と呼んでいた。これは非物質的な存在が、物質世界にそれでも効果を生み出すことを説明しようとした概念である。この概念をニュートンはくりかえしているにすぎない。しかも空間についてこのようにスコラ学の術語を使って語ることをニュートンは後年の著作では行っていない。おそらく「重力について」でスコラ学的概念が導入されたのは、大学教育というスコラ学に以前準拠した教育が行われていた場所での講義だからこそだろう。

 以上から分かるように、ニュートンの方法論的言明にスコラ学への大きな依拠を見いだすことはできない。ザバレラの利用はおそらくない。またたとえスコラ学の概念が用いられていたとしても、単なる一般的な概念の利用に留まっており、そこから独自の哲学を発展させようとはしていない。むしろニュートンはスコラ・アリストテレス主義的に原因を探求し、最終的に神と世界との関係をつきとめようとするような形而上学を強く警戒していた[なぜならこの試みこそがかつて三位一体という異端を産みだしたから]。人間に分かるのは現象から導きだされる性質だけである。この意味でニュートンは、反スコラ学であり、反形而上学であり、経験主義者であった。