学術雑誌の起源へ 柴田「刊行初期の『トランザクションズ』」

科学史研究 2015年10月号 No.275

科学史研究 2015年10月号 No.275

 最古の学術雑誌と言われるけれど、実はフランスの『ジュルナル・デ・サヴァン』のほうが2ヶ月先に出ていたということなので、最古じゃないんじゃないかと思われる『フィロソフィカル・トランザクションズ』について概観した論考を読む。

 『フィロソフィカル・トランザクションズ』はロンドン王立協会の雑誌といわれているものの、実は当初は王立教会が発行していたのではなかった。当初は学会の事務総長であるヘンリー・オルデンバーグが個人で発行していたのである。オルデンバーグは、彼が以前から構築していた書簡を通じての学識者ネットワークを発展させるかたちで、各地から送られてくる報告を編集して雑誌として発刊した。送られて来た報告は、王立協会の会合出検討され、協会の評議会による許可をうけたうえで、掲載された(出版許可の特権は通常主教が有していたものの、王立協会は独自に許可する権利を与えられていた)。

 『トランザクションズ』の誌面はその4割近くが書評であった。ただしこの割合は『ジュルナル』における書評の割合よりはかなり低い。いずれにせよ初期の学術雑誌の主要目的の一つが、書物の紹介であったことがよく分かる。またニュース記事も掲載されている。「バミューダ付近でのアメリカの新しい捕鯨について」や「ガラガラヘビを殺す方法について」といった記事がある。このような記事が掲載された理由としては、王立協会が実利的な研究に重きをおいていたことがある。

 さらに現代の論文のように一見見えながら、実はまったく違う成り立ちをしていた論考も掲載されていた。ボイルの「水銀の金と共加熱」は、彼の錬金術研究の成果を報告するものである。ここでボイルは、彼が言わんとするところは論文だけ読んでも理解できないようにしてある。内容を金属変成の理論に精通した達人にだけ理解してほしかったのである。ここには研究成果を広く公に知らしめるという現代の学術論文の機能とは違う役割が、論文に与えられているのを見てとれる。

 オルデンバーグはまた、王立協会の活動の内部と外部の境界線を策定し、さらに内部の活動が激しすぎる論争に支配されないように配慮しながら編集を行っていた。たとえばホッブズの寄稿は排除されていた。また論争を呼びうるような強い断定は、オルデンバーグの編集によって削除された(ニュートンの色と光についての論考)。

 以上から分かるように、『トランザクションズ』は現代の学術雑誌の原型であると当時に、当時の学識者共同体のあり方を色濃く反映を誌面をつくりだしていたのである。