対象の構成の歴史としての科学史 カンギレム「科学史の対象」

科学史・科学哲学研究 (叢書・ウニベルシタス)

科学史・科学哲学研究 (叢書・ウニベルシタス)

 カンギレムが科学史という学問について語った論文を読む。こみいった議論がなされており、十分な理解がえられたとは到底いえない。ここでは今回読んでみて重要だと思った部分につき、私の側からの解釈を混ぜながら書きとめておきたい。

 科学史とは何を対象とする学問なのだろうか。人々はしばしばこの問いへの回答があたかもすでに与えられたかのように、違う問いに取りくんでいる。その問とは、どのように科学史を探究すべきかというものである。あるべき科学史研究の方法としては内在主義と外在主義が対置されてきた。内在主義は科学の歴史は自律的な理論発展の歴史として書かれるべきだという立場である。たいして外在主義は、科学の発展は科学の外にある政治的・経済的・宗教的その他さまざまな状況により引き起こされるものとして記述されるべきだとする。

 だがこれらの立場はどちらも、科学史が説明を与えるべき対象を、科学の側の事実(たとえば理論発展)としてしまっている時点で同じである。その同じ対象の歴史をどう記述するかが問題となっている。しかし科学史の対象は本当に科学の対象なのだろうか。科学はその対象を、基本的には自然物からまずは取ってくる。しかし自然物はそのままでは科学の対象として成立しない。そのためには、一定の理論的前提にしたがって自然物が切りだされねばならない。この意味で科学は対象を構成する。じつはこの構成の過程こそが科学史の対象となるのである。科学史は、科学が対象を構成するしかたが歴史的にいかに生まれ、消え、変化してきたかを記述する。その意味で科学史の「言説の対象は科学的言説の歴史性にほかならない」。このときたとえば過去の人物がいかなるかたちであたらしく科学の対象を構成するかは、同時代の既存の科学だけではなく、当時のイデオロギーや政治上の要請などによっても規定されることがある(e.g., 生物測定学や精神測定学)。よって純粋な内在主義は成り立たない。一方、その構成が科学的理論理論構成の一環として行われる以上、それを科学外の条件に還元することはできない。

 科学史の対象を科学の対象と一致させてはならない。科学史とは、科学の対象がさまざまな条件のなかで、いかに構成されていくかを、時間的変化のなかで追跡する学問なのである。