先鋭化するデカルト主義 Goudriaan, Reformed Orthodoxy and Philosophy, #1

  • Aza Goudriaan, Reformed Orthodoxy and Philosophy, 1625–1750 : Gisbertus Voetius, Petrus van Mastricht, and Anthonius Driessen (Leiden: Brill, 2006), 54–65.

 ペトルス・ファン・マストヒリトはユトレヒト大学の神学教授の地位をボエティウスからついだ人物である。マストリヒトもまた、ボエティウスとおなじように、キリスト教世界で伝統的に受けいれられてきた「折衷哲学 philosophia eclectica」を支持していた。ここでいう折衷哲学とは、その基礎をアリストテレスに置きながらも、アリストテレスに執着しすぎずに信仰との調和を保ってきた哲学のあり方を意味していた。

 マストリヒトが大きな関心を払った問題に、神学と哲学の関係があった。マストリヒトによれば、聖書は人間理性を導く指針となる。聖書からとられ、神学によって整備された諸原則は、他の諸学問に原理を提供するのである。しかしだからといって、理性に役割が残されないわけではない。というのも理性がなければ、聖書を正しく解釈することができないからである。しかも理性は、聖書の権威を信じない者たちに反論するさいにも有効である。このように理性の価値を神学とキリスト教の擁護の観点から説くのは、ボエティウスとおなじである。同種の主張は『理論・実践神学 Theoretico practica theologia』でも行われている。そこでは理性の軽視(カトリック権威主義ルター派の理性への敵対にみられる)と理性偏重(ソッツィーニ派とメイエルに認められる)のどちらにもつかない中間の道が探られている。理性は原罪により堕落したため、信仰を導くことはできない。だがその意義は全否定されるべきではない。理性には聖書解釈を定めるという役割があるのだ。

 以上のような見解を、マストリヒトは1677年にだされた『デカルト主義の壊疽 Novitatum cartesiarum gangraena』のなかでデカルト主義批判の文脈でくりかえしている。マストリヒトの考えでは、デカルト主義は神学を犠牲に哲学の自律性を高めていた。しかもこのような傾向性はデカルト本人においてそうであったよりも強化されている。デカルトは自らの哲学を神学にあわせて調整することをいとわなかった。またデカルトは神学においてこそ最高度の確実性が達成されると考えていた。これにたいしてデカルト主義者たちは、哲学を神学から独立させ、哲学に神学に劣らない確実性を与えている。この傾向をおしすすめたすえに到達するのがスピノザの『神学・政治論』である。そこでは真理はもっぱら哲学が司ることになり、神学はたかだか服従と敬虔さを教えるにとどまっている。このようなデカルト主義者たちにたいし、マストリヒトは堕落した理性の限界を説く。そこから明晰判明な知覚においては知性はけっして誤らないとするデカルト哲学の前提を否定する(ここでユリウス・カエサル・スカリゲルの哲学が引かれる)。よって理性ではなく、聖書こそが原理とならなければならない。