改革派神学における理性の役割 Muller, Post-Reformation Reformed Dogmatics

  • Richard A. Muller, Post-Reformation Reformed Dogmatics: The Rise and Development of Reformed Orthodoxy, ca. 1520 to ca. 1725. 4 vols. 2nd ed. (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2003), 1:398–402.

 改革派の神学者たちは、理性が神学の教えを提供するとは認めなかった。それができるのは、聖書だけである。理性ができるのは、神学のうちに論理的な誤りや、端的に非理性的な事柄が入り込むのを防ぐことである。それによって、聖書から結論を引き出したり、その結論を適切に定式化したり、神学の教えを論敵から擁護することに理性は貢献する。このように、理性はあくまで道具として重要である。

 道具としての理性の役割は、聖書でも肯定されている。たとえば、レオンハルト・ファン・リーセンによると、第一に理性は啓示を認識するのに役立つ。『マタイ福音書』第13章51節では、「これらのことがすべてわかったか」とキリストが問い、弟子たちが「はい」と答える。このように、理性によって、弟子たちは教えを認識した。

 第二に、理性は他人と議論したり、論争したりするときに役立つ。『使徒行伝』第17章11節では、ベロイアのユダヤ人たちが「非常に積極的に御言葉に耳を傾け、果してそういうことなのかと、日々書物を検討した」とある。この検討の結果、彼らの多くがキリストの教えを信じるようになった。

 第三に、理性は啓示を説明するにあたって役立つ。『ネヘミヤ記』第8章9節では、「彼ら[=エズラとネヘミヤ]は神の律法の書をはっきりと朗読し、また意味を明らかにしたので、人々はその朗読を理解した」とある。彼らは理性によって、律法の書の意味を明らかにしたのである。

 第四に、理性は誤ったことを見分けるのに役立つ。『フィリポイ』第1章10節には、「そしてその結果あなた方が、何がすぐれたことなのか自分で検証して」云々とある。キリスト教徒は、理性による検証で誤ったことを見出すのである。

 第五に、理性は反論に答えるのに役立つ。『ローマ』第9章19〜20節には、「ではあなたは私に言うだろうか、『それなら(神は)なおも(我々に対して)一体何を非難するのか。誰も神の意志に逆らうことなどなかったではないか』と。おお、人よ。神に対して言い返そうなどとは、あなたはいったい何者なのだ。彫刻の像が制作者に対して、『あなたは何故私をこういう風に作ったのですか』などと言えるだろうか」とある。ここでパウロは理性によって反論に答えている(以上の議論は、Leonard van Rijssen, Summa theologiae elencticae [Bern: Georgius Sonnleitnerus, 1676), I.10, 6に基づく)。

 このように理性の使用の意義を聖書によって裏付けることで、改革派の神学者たちは自分たちの神学が聖書に基づいているという原則を守ろうとしている。このような方針を、盛期正統主義の最後の世代に属するリーセンやマストリヒトも守っている。

 ベネディクト・ピクテーは次のように論じている。理性は信仰の原理 principium でも規準 regula でもない。それは聖書である。しかしそれでも理性は神学において大変役に立つ。

理性は精神の目のようなものである。対して聖書は、それに沿って目が測るべきものを測る測定具である。理性は道具であり、それによって信徒は、信じるべきこととして示されたことを、真理の曲げられることのない定規 norma としての聖書で測る。それはちょうど私たちが測りたいものを手と目によって公の前腕尺で測るようなものである。だが理性は信じるべきことの定規そのものではない(Benedictus Pictet, Theologia christiana, 2 vols. [Geneva: Cramer et Perachon, 1696], I.14.7, 1:96)。

 この意味で理性は、ハガルと同じく侍女でなければならない。パウロが宗教を理性的な崇拝 cultus rationalis と『ローマ』第12章1節で呼んでいるのも、その源泉が理性だからではなく、宗教を実践するのが理性的な存在者だからである(Turretin, Institutiones I.8.8)。

 トゥレティーニによれば、神学における理性の役割は、公の場で論争を決着させる審判者のそれではない。そのような権威は、神の言葉とそれを伝える牧師にある。理性の役割は、ある個人のうちで真と偽を区別することである(I.9.2)。また理性は、理性には理解不能なこと(たとえば三位一体)についてはいかなる権威も持たない。しかし、カトリックの実体変化の教説やルター派の聖餐におけるキリストの身体の遍在の教えを、物体についての理解と両立不能だという理由で否定することはできる(I.9.8)。また理性は信仰に関する教えを獲得することはできない。しかしそれらが一度啓示によって獲得されれば、それらの間のつながりをつけていくことはできる(I.8.11-12)。

 トゥレティーニはこのような神学における理性の位置づけを、2つの極端な立場の中道を行くものと理解していた。一つはソッツィーニ派によるもので、理性によって基礎づけられないことはすべてひていしまう。もう一つは、相矛盾する言明の間でどちらが正しいかを決める役割を理性から奪ってしまうルター派によるものである(1.8.2-3; I.10.1-16)。