年代学がつくる文芸共和国 Grafton, "Chronology, Controversy, and Community in the Republic of Letters"

Worlds Made by Words: Scholarship and Community in the Modern West

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  • Anthony Grafton, "Chronology, Controversy, and Community in the Republic of Letters: The Case of Kepler," in Worlds Made by Words: Scholarship and Community in the Modern West (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2009), 115–136.

 ケプラーの活動のうちで、年代学がもっている意味について考察した論文を読む。ケプラー研究が盛んになるなかにあっても、彼の年代学研究を調べる歴史家は少ない。年代学はとにかくテクニカルなのだ。その人を寄せつけない性質は、初期近代からすでに認識されていた。しかし、まさにその困難さがケプラーを引きつけていた。また年代の同定にあたっては、天文学上の記録との突き合せが重要な意味をもつため、この領域は天文学者たるケプラーの守備範囲であったといえる。

 ケプラーは長きにわたって年代記に関心を持ちつづけた。しかし、彼は膨大なノートを残しつつも、結局この分野に関してまとまった著作を出版することはなかった。出版されたものは、同時代の学者たちとの手紙のやりとりをもとにした著作にとどまる。しかしまさに、この書簡形式という点にこそ、ケプラーが年代学に認めていた意義があるのではないかとグラフトンは説く。年代学の問題について議論を続けることが、互いに対立しながらも、なお敬意を払いながら交際を続けることのモデルとなりうるとケプラーは考えていたのではないかというのだ。

 この点でとりわけ興味深いのは、ケプラーがイエスの生年の確定にあたって、イエズス会の学者の計算を支持し、それを天文学上の証拠で補強した事実である。この生年(紀元前4年)は、カルヴァン派のヨセフ・スカリゲルが計算した年とは異なっていた(紀元前2年)。ルター派として、同じプロテスタントに属するケプラーが、尊敬してやまなかったスカリゲルの見解を拒絶し、イエズス会の側に立ったというのはショッキングであった。このことは、当時イエズス会側が、スカリゲルの著作を否定する学問上のキャンペーンを張っていたことを考えるとさらに驚くべきものとなる。実際、ケプラーによるスカリゲルの否定は、イエズス会側に喧伝されることになる。もちろん、この動きもケプラーは支持しなかった。彼は必要以上にスカリゲルを批判することをよしとしなかった。

 ケプラーにとって、年代学とは、見解の対立のみならず、宗派の対立もまた認めながら、それでも友好的に学問的なやりとりを続けるにあたってのモデルとなる学問であった。もちろん、そうやって作られた文芸共和国のなかに、多くの亀裂が走っていたことは認めなければならない。また、ケプラーすら時として関係を壊してしまうような言葉を発してしまったこともある。なによりも、彼の融和的な姿勢は、カトリックプラハで皇帝の庇護を受けたルター派の数学者という特権的な身分によってこそ、可能になったものであった。それでも、年代学という科学と人文学が交差する点で、後の学問共同体のモデルとなるようなやりとりのコードが形成されていたことを私たちは見逃すべきではない。