レモンストラント派と三位一体論 McCall and Stanglin, After Arminius

  • McCall and Stanglin, After Arminius, 52–55.

 レモンストラント派が、どうして反三位一体論の嫌疑をかけられたかについての解説を読む。アルミニウスは1605年に、子を父に従属させているとして、批判されていた。アルミニウスの神学への支持を表明していたエピスコピウスも、1616年ライデン大学の神学教授であるフェストゥス・ホミウスによって、三位一体の教義を否定するソッツィーニ主義者として批判された。エピスコピウスとホミウスは会談を持ち、ホミウスがエピスコピウスの正統性を認めたことで、市と大学は彼を問題視しないことにした。

 しかしそれ以後も、レモンストラント派に対してソッツィーニ主義に共鳴して、三位一体の教義について異端的教えを説いているという嫌疑はかけられ続けた。理由の一つはレモンストラント派が、聖書に現れない用語を使いたがらなかったことにある。エピスコピウスは中世スコラ学に由来する三位一体についての専門用語を使わないで済ませようとした。それでも彼は、hypostasisや、persona、subsistentiaといった用語の使用は認めていた。De Courcellesはhypostasis, consubstantialis、さらには三位一体や本質といった言葉ですら使わないようにしようとした。この姿勢は敵対者たちから、三位一体の教義の否定として非難された。もちろんレモンストラント派からすれば、テクニカルな術語の使用を避けることと、三位一体を否定することはまったく別の話であった。彼らは救いに必要な教えはすべて聖書に明確に書かれているのであり、聖書にない術語を持ち込むことはかえって教会内に不和を招くと考えていた。

 第二に、レモンストラント派は父と子と聖霊のあいだに明確な順序(ordo)を認め、そこから父に対して子が従属しているとはっきり主張していた(したがって彼らは子のことをαὐτόθεοςとは呼ばなかった)。反対者たちは、もしこのような順序を認めるとするなら、それらの位格の本質も同一視できないことになり、こうして三神主義が帰結すると批判した。

 初期のレモンストラント派は、自らの正統性を主張してやまなかったものの、その中からやがてユニタリアンな主張を行う者たちも現れた。