デカルトにおける表面の自然学と化体の秘蹟 佐藤「信仰を支える人間的な論拠」

  • 佐藤真人「信仰を支える人間的な論拠 デカルトの「表面」について」『哲学』no. 73、2022年、255–270ページ。

 デカルトの化体(transsubstantiatio)の理論を、彼の自然学で「表面」(superficies)が占める役割から説明する優れた論文を読む。様々な論点が盛り込まれているため、ここでは私が理解できた限りでの論旨をノートに取る。

 デカルトは自分の自然学は、化体をスコラ学の理論よりもうまく説明できると自負していた。スコラ学の理論として、トマス・アクィナスの学説を参照する。ここで注目すべきは、アクィナスもまた、デカルトと同じく表面について論じることで、化体を説明している点である。アクィナスによると、物体の表面とは、物体の偶有性である。さらに表面は、色の基体となっている。この色によって、表面は知覚される。化体では、パンはキリストの身体に変化する。しかし、パンの表面は変化しないために、引き続きパンとして知覚される。

 この説明の難点は、パンの実体がキリストの身体に変化したのに、どうしてその実体の偶有性である表面が変化しないかの説明が困難な点にある。これに対してアクィナスは、神の力を持ち出す。神の力によって、表面という偶有性は、それ自体として存続でき、色の基体であり続けられる。同じく神の力によって、キリストの身体はパンに現前する。こうして、表面の存続と、キリストの身体の現前の2点が、神の力を根拠に説明される。

 この見解に対してデカルトは、化体を経ても表面が存続することは、神の力を持ち出さずとも理解できるという。というのも、物体が実体として変化したとしても、その物体を構成する粒子と、それを取り囲む物体との境界としての表面は変化しないということは、十分考えうるからである。表面が同じであれば、それがどう光を反射し、どのような色のものとして知覚されるかは変化しないのは当然である。これは、デカルトが表面を、ある物体とそれを取り囲む物体の境界としてのみ考えているから可能な理解である。これはアクィナスのように、表面をある物体の偶有性とし、さらにその偶有性が色を支えていると見なすならば、想定できない。

 しかし、物体が変化しても、表面が存続するという主張には、なお理解しがたい点があるかもしれない。この点についての理解を深めるためには、キリストの身体の現前について、デカルトがどう論じているかを見るとよい。デカルトは、キリストの身体の現前が超自然的な仕方で起こることを認める。しかしなお、自らの自然学と関連づけることを行っている。私がパンを食べる。するとパンは粒子に分解され、血液を流れる。しかし、物体として見るならば、これは元の表面を維持している。というのも、粒子の一つ一つとそれを取り囲む物体の境界は、総体としては変化していないからである。ただし同時にパンはある意味で実体変化している。というのも、私の魂がパンの粒子に結合することで、それらは「私の身体」になるからである。これと同じように、聖別の言葉(「これは私の身体である」)によって、キリストの魂がパンに結合することで、それらは「キリストの身体」になる。このパンはたとえちぎられたとしても、それらの粒子の各々にキリストの魂が結合している以上、キリストの身体であり続ける。ここで聖別の言葉がなぜ力を持つのかとか、キリストの魂がどうパンに結合するのかは、説明できない。しかしそれでも、人間の魂が物体に結合するという心身合一と平行させた説明は可能である。

 ここから、化体における表面の存続が理解できる。まず消化においてパンが粒子レベルに分解されたとしても、それらの粒子が元来もっていた表面が失われることはない。それは、たとえそれらの粒子が、私の魂に結合して、「私の身体」となったとしても同じである。同じようにパンも、ちぎられようとも、キリストの魂に結合したとしても、それを構成する粒子が元来もっていた表面を失わない。表面との接触を介して(例えば色や味の)感覚は生じるのだから、このパンを食べると、パンの味がするのは当然である。

 最後に確認しなければならないのは、表面を使った説明を、デカルトは化体の説明に限って用いているのではなく、むしろ表面は彼の光学、宇宙論、人間論、運動論を横断して頻出するテーマであるという点である。この意味で、デカルトの自然学は表面を介して、化体の問題に結びついていると言える。たとえば光学は、表面で光がどれほど屈折するかの研究である。また表面での光の屈折が眼球内で繰りかえされることにより、視覚は生じる。よって、表面の学問である光学と色の知覚は不可分な主題である。だとすると、「(『世界論』で)色について私なりの仕方で述べるつもりでおり、したがって、聖体の秘蹟でパンの白さがいかに残るかを説明しなければならないと思い…」(本論文256ページ)と、デカルトが色の理論から、化体の問題が直ちに説明できると考えているのも、納得がいく。

 以上のように、デカルトは化体の問題を通じて、自らの自然学がキリスト教の教義と合致し、しかも従来のスコラ学よりも奇跡を持ち出さずに説明できる領域を拡大しているということを示そうとした。この試みを可能にしていたのが、彼の表面の自然学であった。