ユトレヒト紛争の顛末 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 29–33.

 基本書の続きを読む。ユトレヒト紛争を扱った最後の箇所である。

 デカルトは『ヴォエティウス宛書簡』をユトレヒト市に送った。その結果、彼の期待とは反対に状況は悪化し、デカルトへの訴訟が提起されてしまう。デカルトはフランス大使に働きかけ、訴訟を取りやめさせることになんとか成功した。

 デカルトはさらに、グローニンゲン大学に対して、同大学の教授であるスホーキウスを訴えた。この時のグローニンゲン大学の学長は、ヴォエティウスと対立していたマレシウスであり、またスホーキウスのヴォエティウスに対する感情は悪化していた。このためもあってか、大学はデカルトを満足させる判決を下すことになる。1645年4月10日付けの判決で大学は、『驚くべき方法』の本当の著者はヴォエティウスであるというスホーキウスの証言を採用した。ここから、『驚くべき方法』の著者はスホーキウスなのか、ヴォエティウスなのかという争いが継続することになる。

 その争いのなかで明らかとなったのは、『驚くべき方法』がどのように書かれたかであった。スホーキウスによる詳細な証言によると、まずデカルトの『ディネ師宛書簡』の詳細な検討を含む序文と、デカルトを異端者ヴァニーニになぞらえた第四節は、着想はヴォエティウスによるものの、スホーキウスによって書かれたものであった。また第二節と第三節は完全にスホーキウスの手になるものである。第一節は著者が判然としない。それはスホーキウスの考えを反映しているのであるが、最終的にヴォエティウスの同意を経ていると考えられる。したがって、『驚くべき方法』をスホーキウスの著作と見なすことに問題はない。ただし、その執筆にヴォエティウスガ深く関わっていたのは事実である。

 『驚くべき方法』を巡る論争は、ユトレヒトでのヴォエティウスの立場を弱めることになった。そもそも市は1642年3月15日の決定で、レギウスに医学だけを教えるように命じたことにより問題は解決したと考えていた。1643年の「法律」にはデカルト主義者への攻撃が含まれていたものの[この「法律」は何?]、その後も市は1652年にデカルト主義者のデ・ブリュインをを教授に任命することになる。1642年に始まったデカルト主義への弾圧は、表面的なもの以上にはならなかったのである。