デカルトの書簡からのダッシュの省略 津崎良典「真理とは何か?」

 

  • 津崎良典「真理とは何か?:神による永遠真理の自由な創造に関するデカルトの理説をめぐって」『現代思想』vol. 52-1, 2024年、203-212ページ。

 デカルトの永遠真理創造説についての論文を読む。一箇所非常に気になる箇所があったので、記録として残しておく。

 205ページには以下のように、デカルトメルセンヌ宛書簡(1630年4月15日)が引用されている。

人はあなたに、もし神がそれらの〔永遠的とあなたが呼ぶ数学的〕真理を設定したのなら、神はそれらを、ちょうど王が自分の法に対して行うように、変えることもできるであろう、と言うでしょう。それに対しては、然り、もし神の意志が変えることができるなら、と答えなければなりません。―しかし、私はそれらの真理を永遠で不変のものと理解します。―そして私はといえば、神についても同様だと判断するのです。しかし、神の意志は自由です。

 この引用では、「そして私はといえば、神についても同様だと判断するのです。しかし、神の意志は自由です」はひと続きの文となっている。しかし実際には、「しかし、神の意志は自由です」の前には「―」が入っている。このダッシュがこの引用では省かれている。

 『デカルト全書簡集』第1巻135-136ページの訳では、ダッシュが訳出されている。

神がこれらの真理を確立したのであれば、王が自らの法を変えるように神は真理を変えうると、言う人がいるかもしれません。神の意志が変わりうるのであれば、それに対して肯定で答えなければなりません。―しかし、私は真理を永遠で不変なものと理解しております。―そして神についても同じだと私は考えております。―しかし、神の意志は自由です。―そうです、しかし、神の力は把握不可能です。そして一般的に、神はわれわれの把握することならすべてなしうるとわれわれは断言できます。しかし、われわれの把握できないことを神がなしえないというわけではありません。というのも、われわれの想像力が神の力と同じだけの広がりをもっていると考えることは、畏れ多いからです。

 ここからは、デカルトがここで次のような仮想的な対話を展開していることが分かる。Aが対話相手で、Bがデカルトである。

A「神がこれらの真理を確立したのであれば、王が自らの法を変えるように神は真理を変えうる」

B「神の意志が変わりうるのであれば、それに対して肯定で答えなければなりません」

A「しかし、私は真理を永遠で不変なものと理解しております」

B「そして神についても同じだと私は考えております」

A「しかし、神の意志は自由です」

B「そうです、しかし、神の力は把握不可能です。そして一般的に、神はわれわれの把握することならすべてなしうるとわれわれは断言できます。しかし、われわれの把握できないことを神がなしえないというわけではありません。というのも、われわれの想像力が神の力と同じだけの広がりをもっていると考えることは、畏れ多いからです」

 このような対話の展開を見えなくさせる点で、ダッシュの省略はデカルトの文書の理解を妨げている。

 実際、「真理とは何か?」論文は、書簡のこの部分の展開を不適切な形で解説している。208ページには次のようにある。

私たち人間は、神は数学や論理学における真理を変更しないものと「判断する」とデカルトは述べていた。しかしこの〈判断〉は、神はそうあって欲しいという願望の裏返しではないのか。神はやはり、その「絶対的な力能」をもってすれば、人間が確信している数学や論理学の真理を、さらにはそれを構成要素とする自然法則を変えるかもしれないし、実際のところ、人間が理解しているのとは異なる事態をすでに成立させているかもしれない。実際、デカルトは1630年4月15日付のメルセンヌ宛書簡において、「判断するのです」云々と述べた舌の根も乾かぬうちに、「しかし神の意志は自由です」と付け加えていたではないか。

 確かにデカルトは「判断するのです」の直後に「しかし神の意志は自由です」と付け加えている。しかしこの「しかし神の意志は自由です」というのは、対話相手による反論である。『デカルト全書簡集』の訳を使って解説するなら、直前でB(デカルト)が「そして神についても同じだと私は考えております」と述べている。これは、「そして神についても永遠で不変なものと私は考えております」ということである。この発言にたいしてAが、「しかし、神の意志は自由です」と反論している。これは、「神の意志は自由なのだから、神の意志は不変ではない」ということである。さらにこのAの反論に対して、B(デカルト)は「そうです、しかし、神の力は把握不可能です……」と返している。ここの解釈は私にはうまくできないものの、「神が永遠で不変である」というのと「神の意志は自由である」ということが両立可能であることの根拠として、「神の力は把握不可能です」という主張が導入されているように読める。

 このような対話の進行の一部として現れる「しかし神の意志は自由です」について、「「判断するのです」云々と述べた舌の根も乾かぬうちに、「しかし神の意志は自由です」と付け加えていたではないか」と解説するのは、不適切であるように思われる。ましてこの付け加えから、神が「人間が理解しているのとは異なる事態をすでに成立させているかもしれない」という可能性を認めることはできない。むしろ、デカルトの書簡からは、神の意志が自由であるということと、神が不変であることは両立するのだから、神が自由であるからといって神が「人間が理解しているのとは異なる事態をすでに成立させているかもしれない」と危惧する必要はない、という正反対の主張が読み取れる。