レギウスの討論とヴォエティウスの反論 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 14–19.

 本書の第1章ではいわゆる「ユトレヒト紛争」が取り上げられる。まず著者は、ヘンリクス・レギウスの1641年に行った討論が、どのような論争を引き起こしたかを解説する。

 ヘンリクス・レギウスは、デカルトの『方法序説』と三試論を読み、デカルト哲学に基づく独自の自然学体系を構築していた。ユトレヒト大学に着任したレギウスは、同大学にいたヘンリクス・レネリの仲介で、デカルトとやり取りをするようになる。デカルトはレギウスが自分の考えを出版物のなかで表明することには反対したものの、それを討論で表明することには賛意を示した。レギウスは討論の許可を当時学長であったヴォエティウスに求めた。ヴォエティウスはレギウスに医学についての討論を開催することを許可した。

 レギウスはまず『医学討論』と題された討論を行った(後に『生理学あるいは健康の認識』というタイトルで出版された)。3つの討論(それぞれ1641年4月5日、5月5日、6月30日に提出された)からなるこの討論のなかで、レギウスは人間が感覚する性質(たとえば暖かさと冷たさ)はすべて眼には見えない部分の配置と運動から来るとしている。また、人間の霊魂は非物体的で不死であり、考えているものであるとしている。

 続いてレギウスは1641年11月24日から、De illustribus aliquot quaestionibus physiologicisと題された討論を開始する。この討論のうちの最後の第3番目の討論(1641年12月8日に行われた)は、大変な騒ぎを引き起こした。その討論でレギウスは、人間の身体と霊魂はそれぞれが単独で完全な実体なのだから、それらのあいだの結合は偶有的なもの(accidental)であると主張した。この主張は、死後には身体と霊魂の偶有的な結合は解消されて、身体は完全に消滅し、それゆえ身体を伴っての復活は起きないという結論に至る危険性があった。当時身体を伴っての復活はソッツィーニ派が否定し、レモンストラント派が受け入れをためらっていたこともあり、センシティブな論点であった。このような主張に、討論に参加していた数多くの神学部の学生たちは衝撃を受けた。また、このような討論がヴォエティウスを始めとする神学者たちに宛ててなされていたことも問題であった。さらにレギウスが、ヴォエティウスによる聞き取り調査のなかで、この主張をデイヴィッド・ゴルラエウスに帰したことも状況を悪化させた。ゴルラエウスは正統派のなかでは悪名高かったからである。

 ユトレヒト大学の神学部は、ヴォエティウスが1641年12月18日の討論に3つの系を付して、そこでデカルトの哲学を批判することを認めた。ヴォエティウスは、人間が偶有的に一つであること、コペルニクスの世界体系、そして反アリストテレスの哲学を批判した。レギウスの名は言及されていないものの、彼が批判の対象となっていたのは明らかであった。

 さらにヴォティウスは12月23日と24日にに別の討論を行い、それらの討論への付録のなかで、アリストテレスの形相概念を否定する立場への批判を行った。ヴォエティウスによれば、もし実体形相を否定すれば、それぞれの存在が実体であると主張できなくなる。また形相を否定すれば、世界から二次原因は消滅し、すべての出来事が一次原因としての神に直接引き起こされることになる。最後に、形相を否定すれば、事物に対して種や類を認めることが不可能になる。ヴォエティウスはさらに、コペルニクスの世界体系と聖書のあいだの矛盾を指摘している。ヴォエティウスによれば、新哲学の提唱者たちが証明することは証明されておらず、しかも互いに異なっている。それらは時の試練に耐えてきた伝統的な哲学にとって代わる資格はないという。

 レギウスはデカルトのアドバイスを受けてヴォエティウスの付録への『返答』を出版した(1642年2月16日)。そこでレギウスは、アリストテレスの実体形相の教えは、形相が質料から引き出されるとするのだから、実体形相としての霊魂は物体となってしまうと主張した。レギウスによればこのような学説こそが無神論の危険を帯びているのだった。レギウスの『返答』は即座に回収処分となり、1642年3月に市当局はレギウスを『返答』を出版したために非難し、彼が医学以外を教えることを禁止した。また、同月に大学の教授たちが出し、市当局の同意を得た判決のなかで、レギウスは同じ大学の同僚と論争してはならないという暗黙の了解に反したために批判された。そこでは新哲学も断罪された[ここの記述は、Verbeek, La querelle, 120–122の記述によって少し補った]。それは上級学部、とりわけ神学部で学ぶことになる学生に偏見を与えるからであるという。こうしてユトレヒト大学はデカルト哲学を講じることを最初に認めた大学であり、なおかつそれを禁じた最初の大学になった。

 

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