『驚くべき方法』と『ヴォエティウス宛書簡』 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 19–29.

 基本書を読み進める。ここで著者は、ユトレヒト紛争の第2段階として、スホーキウスの『驚くべき方法』とデカルトの『ヴォエティウス宛書簡』を検討している。

 ユトレヒトでの論争は、デカルトが『省察』の第2版を1642年の春に出版したことによって新たな段階に入った。デカルトは第2版に『ディネ師宛書簡』を収録した。彼はその後半部でヴォエティウスを激しく攻撃した。デカルトによれば、ヴォエティウスはデカルトの議論に反論できないから、彼の哲学を禁止する方向に動いたのだという。デカルトはまた、ユトレヒト大学がデカルト哲学を禁じた決定に関しても(それを起草したのはもっぱらヴォエティウスだと見なしつつ)批判した。決定では、デカルトの哲学は古代の哲学の軽視を招くとされており、この点でとりわけ神学にとって有害であるとされていた。しかしデカルトに言わせれば、彼の哲学はすべての理性的な存在者が認める原理に基づいている以上、一般的に言われている「古代哲学」よりもなお古いと見なせるのだった。

 ヴォエティウスは直ちに反撃した。彼の要請により大学は『経緯陳述』Narratio Historicaと題された文書を作成し、そこでレギウスへのヴォエティウスの対応を擁護した。またヴォエティウスは教え子であり、グローニンゲン大学の哲学教授を務めている、マルティン・スホーキウスにデカルトを攻撃する著作を執筆するように頼んだ。スホーキウスは1643年に『驚くべき方法』を出版した。そこでスホーキウスは、過去の学説も自らの感覚も信じないデカルトの方法は、狂人や熱狂主義者が取るものと同じだと批判した。またスホーキウスは、デカルトは「間接的な無神論者」だというヴォエティウスの従前の批判(これはヴォエティウスが1639年に行った「無神論について」という討論に見られる)も継承した。スホーキウスによれば、デカルトによる神の存在証明は堅固ではない。またデカルトの証明は、神の観念を私たちが有しているという前提から出発するものの、そもそも無神論者は自らが神の観念を有していないふりをしているものである。以上の2点からして、デカルトの証明は無神論者に対して無力である。

 デカルトは『驚くべき方法』の校正刷りをいち早く入手し、反論を1643年の4月、ないしは5月に『ヴォエティウス宛書簡』として出版した。デカルトはヴォエティウスを『驚くべき方法』の実質的な著者とみなした。デカルトの議論は主としてヴォエティウスという人物への攻撃になっている。たとえば彼は、ヴォエティウスとサミュエル・マレシウスの論争を取り上げて、論争好きなヴォエティウスは、同じく正統派に属するマレシウスにまで攻撃をするのだから、デカルトがターゲットになったとしても、デカルトに責めるべきところがあるわけではないと主張している。またデカルトは、ヴォエティウスのような説教師は、そのような立場を利用して、他人や世俗権力を批判するべきではないとも主張している(これは、実質的にはレモンストラント派の主張と同一ではあるものの、だからといってデカルトがレモンストラント派に与していたと見なすべきではない)。