スピノザとモーセ五書(1) Popkin, "Spinoza and Bible Scholarship"

 この論文でPopkinは、聖書に関するスピノザの主張の多くは先行する論者がすでに主張していたことの繰り返しであると主張している。Popkinはスピノザのオリジナリティは、神の普遍的な法を説いた箇所を除く聖書のすべての箇所を純粋に歴史的な文書と見なし、そのような文書として聖書を解釈しなければならないと説いた点にあるとする。Popkinは、このようなスピノザの主張は、超自然的なものを世界に一切認めない彼の形而上学に基づいていたとする。

 Popkinはまず、(ルカスやコレルスの古いスピノザ伝に由来する)スピノザは厳格な正統派のユダヤ教共同体で育ったという見解を修正する。スピノザが育ったアムステルダムユダヤ人共同体は典型的というよりも、むしろ非典型的なものだった。メンバーたちのほとんどはスペインとポルトガルから逃れて来た者たちであり、故郷では異端審問の恐れがあったためにユダヤ教の実践をほぼ行っていなかった。ヘブライ語を理解できる者は稀だった。したがって、アムステルダムの共同体では、ユダヤ教の基礎を教えることが行われた。

 続いてPopkinは、少なくとも1617年以降、この共同体にはラビの教えに背く人物たちがいたことを指摘する。David Farrarとウリエル・ダ・コスタである。彼らはともにアムステルダムのコミュニティから破門されている。このうちダ・コスタは、聖書を字義通りに、理性的に読むことを提唱していた。

 続いてPopkinはスピノザが破門に至った経緯を簡単に解説する。いつの時点からかは分からないが、スピノザは聖書について共同体で教えられていたことを疑問視するようになっていた。1655年までには、Juan de PradoとDaniel Riberaとともに、聖書の地位とその内容を疑問視するようになっていた。彼は見解を撤回するように求められたが拒絶し、破門された。その時点までにスピノザは、ラディカルな思想を持つプロテスタントの人々と交際するようになっていた。

 続いてPopkinは、モーセ五書の著者に関する問題に議論を移す。聖書学の歴史上スピノザが重要である理由の一つは、モーセモーセ五書の著者であることを否定したことにある。この点についてスピノザは、中世スペインのラビであるイブン・エズラが、モーセモーセ五書の著者と見なせないことに注意を向けたとしている。

 スピノザの時代までに、イブン・エズラは重要な聖書注解者だとみなされていた。彼は申命記の注解のなかで、モーセ申命記にあるモーセの死と、それ以後の出来事についての記述を書くことはできなかっただろうとしている。ただしイブン・エズラはここから何か聖書の著者の問題について大胆な見解を引き出してはいない。彼の注解は1546年にヴェネツィアで出版され、それ以後何度か再版された。

 モーセが自分の死について書けなかったということは、カールシュタットによっても支持されていた。ルターはこれに同意し、この箇所は別の人物が書いたのだろうとしている。しかしルターはこの箇所まではモーセが書いたに違いないとしつつ、モーセモーセ五書を書いていなかったとしても何も問題は生じないと予防線を張っている。

 16世紀後半の様々な注解書は、イブン・エズラに依拠しながら、モーセ五書モーセの作品とみなすことの難しさに言及している。17世紀の注解でもやはり、モーセの死についての記述はモーセではなくヨシュアが書いたのだと言われ、さらにヨシュア記にあるヨシュアの死についての記述はヨシュア以外の人物が書いたのだろうとされるようになる。このような注解の著者たちは、このような困難がありながらも、モーセモーセ五書の(ほぼ全体の)著者であることは受け入れていた。この問題が深刻視されはじめるのは、1650年代に入ってからである。