- Richard H. Popkin, "Spinoza and Bible Scholarship," in Cambridge Companion to Spinoza, ed. Don Garrett (Cambridge: Cambridge University Press, 1995), 383–407.
Popkinはスピノザの検討に移る。スピノザは『神学・政治論』で、イブン・エズラの見解を引いて、モーセ五書はモーセが書いたものではないと主張する。またスピノザは、ラ・ペイレールと同じく申命記の29章と31章を引いて、モーセはモーセの律法を解説するより小さな書物を著しており、これが後のモーセ五書の著者によってモーセ五書に統合されたと主張した。
Popkinは、これらの主張の点でスピノザは先行する論者より確かに過激かもしれないが、大きく異なるわけではないとする。Popkinの見るところ、スピノザが他の論者と違う点は、聖書が神の言葉ではなく、神にインスパイアされた者たちによって書かれたのではないとする点である。ホッブズですら、聖書が神の言葉であることはコモンウェルスが決めることであるとすることで、聖書を神の言葉として認めていた。
Popkinはスピノザのこの特徴を、彼の聖書解釈の方法から読み取る。スピノザは聖書解釈の方法は自然を解釈する方法と変わらないとして、聖書自体と聖書の歴史以外の材料を一切用いないとしている。このように聖書の字義とそれが書かれた文脈だけから聖書を解釈しようとすることにより、スピノザは完全に世俗的に聖書を読もうとした。
Popkinはしかし、この点ですらスピノザは完全にオリジナルであったわけではないとする。当時すでに宗教の言うなれば人類学的な研究がはじまっていた。代表例はジェラルドゥス・ヴォシウスの『異教の神学の起源』である。この中でヴォシウスは最初にヘブライ人に啓示された宗教が、やがて堕落し、それが後のユダヤ教とキリスト教に入り込む歴史を描いている。このような宗教の歴史の再構成は、それをあくまで人間のなしたこととして語るものだった。
Popkinは、とはいえスピノザはこの点でも一つ段階を進めていたという。スピノザは『神学・政治論』の中で、古代イスラエルの預言者が受けていた霊感を純粋に人間的な事象として理解した上で、ユダヤ人の歴史も、摂理による導きではなく、局地的な政治史として解釈した。スピノザによれば預言者は特別な知識を有していたわけではなく、単に並外れた想像力をもっていただけであった。彼らがその並外れた想像力に基づいて言っていたことと、彼らがなぜそのようなことを言ったのかを理解するには、その発言がなされた文脈の吟味が必要である。
Popkinは、このような文脈主義は、もし聖書が神によってインスパイアされた文書だと認めるなら、従来の正統的な理解と両立可能であったはずだが、スピノザはまさに聖書が神によってインスパイアされたものだということを否定したとする。スピノザは聖書を解釈するに当たっては、超自然的な光は必要ないとした。このようにして、聖書から超自然的で神的な要素を排除することによって、スピノザは従来の論者が持ちていた議論の素材を用いながらも、新しい聖書の文脈主義的な理解を用意したとPopkinはいう。
Popkinは、このような観点からスピノザは十戒も理解したという。スピノザは、十戒はあくまでもそれが与えられた当時のイスラエル民族の状況において有効なものとして与えられた。それは別の時代や土地の人々を拘束するものではない。普遍的に妥当する法は、歴史文書で与えられるような法ではなく、理性的に導かれた倫理的な法だけであるとスピノザは考えた。
Popkinは、このようなスピノザの十戒の説明は、マキャベリやホッブズが異教の宗教の発展に与えてきた説明と似ているという。宗教の発展に関する政治的な説明は、これまでユダヤ教と真の(と論者がみなす)キリスト教だけには与えられていなかったが、これをスピノザは与えた。