万象をうつす地球の深部へ 山田俊弘『ジオコスモスの変容』を読む

タレスが星を観察しながら上の方を眺めていて、井戸に落ち込んだときに気の利いたしとやかなトラキア出の下女が、あの方は天空のことを知るのに熱中してご自分の後ろのことや足下のことには気が回らないでいる、という具合にからかった…

 タレスは天に熱中しすぎて井戸に落ちたと伝えられている*1。そうして哲学がはじまった。はるか古代ギリシアのことだ。だが2000年以上をへだてた今でも事態はかわっていないのかもしれない。とりわけ科学革命と呼ばれる時代を調べる歴史家たちにとっては。

 科学革命はコペルニクスにはじまり、ニュートンに完成するといわれる。あいだにはガリレオケプラーデカルトがいる。この過程はなによりも天をめぐる物語として語られてきた。天動説が地動説に交代し、新たな世界理解を裏打ちする力学が誕生する。物語の主役たちは疑いもなく「天空のことを知るのに熱中して」いた。自分の「足下のことには気が回らないで」いたかのようだ。

 だが本当にそうだったのだろうか。彼らは自分たちがどこに立っていたかに気がついていなかったのだろうか。いや、そうではない。それどころか彼らは大地のことを知るのにも熱中していた。井戸に落ちてはいなかった。むしろ落ちたのは歴史家たちのほうではなかったか。コペルクスからニュートンにいたる歴史は別様に語られることを求めている。

 こうして『ジオコスモスの変容』は「地球をめぐる思索をたどる航海」(245ページ)を開始する。16世紀よりはじまり、17世紀の終わりにまでいたる長大な旅だ。錯綜した航跡に一本の筋を通すのが、デンマーク人のニコラウス・ステノだ。著者が長年にわたって研究した人物である。幅広い読書を行い、記録を残した。地理・宗派・宗教の境界をまたぎ、さまざまな知識人たちと交流した。そして各所で発掘調査にたずさわった。彼を水先案内人にすることで、ジオコスモスの探究の歴史が浮かびあがる。

 しかしなぜ「ジオコスモス」なのだろう。ここではこの問いを入り口に、この豊かな著作の一端をかいま見てみたい。

 カギは意外なところにある。化石だ。今日では、化石が過去の生命体に由来するのは当たり前の事実となっている。だがこの認識にたどりつくのは容易ではなかった。考えてもみてほしい。化石はしばしば山でみつかる。貝やサメのものだ。ではそれらがかつては山頂に住んでいたとでもいうのだろうか。—ありえない。それらは通常の鉱物とおなじように、大地のなかで形成されたと考えねばならない。メルカーティやアルドロバンディの結論だ。

 そう考えなかった者たちがいた。出発点にあったのが、まさにジオコスモスの観念だった。古代より二種類のコスモスがあった。マクロコスモスという宇宙と、ミクロコスモスという人体だ。そこに加わるのがジオコスモスとしての地球だ。このような併置は、きわめて重要な意味あいをもっていた。生物体としてのミクロコスモスと類比的にとらえられることで、ジオコスモスたる地球もあたかも生命体であるかのように理解されはじめる。この考えはすでに16世紀中頃のアグリコラにみられる。

 ジオコスモスの観念を全面的に展開したのが、他ならぬステノだった。彼の学生時代のノートから成熟期にいたる記述をたどる第6章は著者の面目躍如といえよう。ステノは最初期から一貫して、生命体内部での固形物の形成と、地球内部での鉱物の形成を類比的に理解しようとしていた。両者とも「個体[生命体、地球]のなかの個体[固形物、地層や鉱物]」という点でおなじというのだ。

 考察を深めたステノはひとつの重要な洞察にいたる。個体のなかの個体の形成は一定の条件にしたがう。そのため地層の堆積の仕方から逆算して、それがどのような過程を経て生みだされたかが理解できるというのだ。人体が歴史を刻むように、地球も歴史をもつ。ここからかつて大洪水があったという知見が引きだされる。その際に水が生体を運んだために、現在山頂に化石がみつかるのだという。こうしてジオコスモスの観念から出発した考察は、化石の理解にたどりつく。

 大洪水という言葉があらわれた。ここから聖書を思い起こさないでいるのは困難だろう。実際この連想は必然でもあった。残された痕跡から地球の歴史を再構成できるのなら、『創世記』の記述との整合性の問題を避けて通ることはできない。さらに興味深いことに、ステノの生きた時代は聖書の解釈にも変革が起きていた時代だった。神の言葉としてではなく、あくまで過去から伝わる痕跡(史料)として聖書を読む者たちがあらわれはじめていた。この構想を盛った『神学・政治論』が衝撃を与えていた。著者のスピノザはステノと親交があった。ここにおいて地球の歴史と聖書の解釈が交差する。その模様を描きだす第7章は本書の白眉だろう。さらに最終章では、おなじくステノと親交があり、同時にスピノザを激しく批判した(そして彼にとりつかれていた)ライプニッツが登場する。核心をなすこのふたつの章で著者がなにを語っているか。それを知るためには、直接本書を手にとってもらわねばなるまい。

 以上の断片的なスケッチからもあきらかなように、「地球をめぐる思索」は単なる地質学の前史ではない。それは生体の理解を前提にしていた。歴史のおよぶ領域を拡大した。聖なる文書の読み方に反省をせまった。じつに『ジオコスモスの変容』は「大いなる知の空間を表象する」(iii)。その豊かさ、奥深さ、そして多様性に見あった読者を獲得せねばならない。散りばめられたうつくしい図版が読書の楽しみを引きたてるだろう。とって読んでほしい。できれば足下に気を回しながら、すこしうつむき加減に。

*1:ただしこの逸話はやはり創作のようだ

18世紀、ドイツ、科学の拡張 Turner, "Prussian Universities," #4

  • Steven Turner, "The Prussian Universities and the Research Imperative, 1806 to 1848" (Ph.D., diss., Princeton University, 1973), 120–127.

 18世紀のあいだに大学での科学教育は拡大した。医学教育は当時の人口増加と、進行中であった知見の革新にともなって勢力を拡張した。フライブルク大学では1700年の段階で医学部に所属する学生は全体の2%だったが、1800年には38%にまで拡大した。新科学の教育も17世紀後半には大学に導入された。たとえばイェーナではボイルの実験が1677年に教えられるようになった。科学教育の基盤は18世紀前半に確固たるものになった。

 科学教育を受けた者向けの職があるわけではなかった。科学を教える教員は医学部の教員を兼ねていることが多かったし、より下級のラテン語学校で教えられる科学はきわめて初歩的であり、専門教育を要求するようなものではなかった。科学教育はもっぱら上級学部に進む者たちのためになされていた。神学部に進む学生は自然誌を学び、医学部に進むものはくわえて化学、生理学を学ぶことが期待された。法学部に進む者も技術官僚となるために、技術教育を受けることがあった。このため大学での科学教育は総論的で基本的なものにとどまっていた。強く実用主義的な傾きをもち、医学部との結びつきが強かった。医学部から独立して、哲学部で専門的な科学教育がなされはじめるのは18世紀の末をまたねばならない。数学教育も建築や測量といった活動との関係で教えられていた。このような技術に重きをおいた教育というのは1720年以前の大学にはほとんどなかったものである。
 科学技術教育の発展と、医学部の拡大は、当時の大学が批判者たちの攻撃とは裏腹に、まさに批判者たちが求めるような改革を行っていたことをしめしている。

 

 

18世紀、ドイツ、大学の改革 Turner, "Prussian Universities," #3

  • Steven Turner, "The Prussian Universities and the Research Imperative, 1806 to 1848" (Ph.D., diss., Princeton University, 1973), 87–119.

 18世紀はドイツの大学の衰退期だと言われてきた。しかしそれと同時に改革が行われた時代とも言われている。この両側面をバランスよく論じなければならない。

 1694年にハレ大学が創設された。ライプツィヒから学生をプロイセン領内に呼び戻すためであった。だがハレは教育内容も独自だった。貴族学校の影響を受け、世俗的、実践的な学問が重視された。自然法、ヴォルフの哲学、新科学などである。

 ハレには重要な三人の教授がいた。クリスティアン・トマジウス、アウグスト・ヘルマン・フランケ、そしてクリスティアン・ヴォルフだ。トマジウスはドイツでの講義に先鞭をつけた。フランケは敬虔主義を大学に導入した。彼の弟子の J. Rombach はイェーナとギーセンに最初の教育学の講義を導入した。ここからドイツに教育学のポストが広まっていく。ヴォルフは1720年までにすべてを演繹的に導きだす体系を完成させていた。1750年にはヴォルフ主義はスコラ学を大学から駆逐してしまった。

 ハレの改革はすばやく波及していった。各地の大学に敬虔主義、俗語の使用、そして自然法、合理論的な哲学、国政術に関する講義が広まっていった。こうして大学は啓蒙主義の思潮に見合った内容の教育を提供するようになった。

 しかしハレの改革は大学への批判を鎮めることはできなかった。カリキュラムの改革だけでは学生の粗暴な行動を抑制できなかった。またカリキュラムにしても、歴史やフランス・ドイツ文学が教えられず、古典語の教育は旧態依然としたものという欠陥が残っていた。敬虔主義とヴォルフ主義も固着化した体系になってしまった。1750年以降、ハレ大学の名声は低下することになる。

 ゲッティンゲン大学は1737年に創設された。この大学は伝統的な大学の最も成功した姿を体現した。域外から多数の生徒を集め、とりわけ貴族が集う大学として名声を高めた。成功はなによりも有能な教員の採用にあった。人事は徹底的にハノーファー王国によって管理されていた。

 ゲッティンゲンで発展した学問のうちとりわけ重要だったのが古典文献学だった。ヨハン・アウグスト・エルネスティとヨハン・マティアス・ゲスナーがとなえた新人文主義は、文法とスタイルに重点をおく従来の古典語学習を、文学的・美学的なものに変革する必要性を唱えた。それによって古代の精神を身につけるべきだというのだ。ゲスナーの後継として、ゲッティンゲンではクリスティアン・ゴットロープ・ハイネが古典学を教授した。すぐれた教育者として多くの学者を育て、ドイツの古典古代学隆盛の基礎を築いた(Altertumswiffenschaft)。ハイネは文献学に美学的で、倫理的な側面を含めたため、これまで文献学で軽視されていたギリシア研究(これは文学運動の方でむしろ重要視されていた)をとりこむことができた。

 ゲッティンゲンは貴族色が強かったこともあり、学生の粗暴な行動を比較的抑制できた。また人事が厳格に国家の管理に置かれたので縁故主義も蔓延しなかった。

 とはいえゲッティンゲンの成功はその規模によって支えられており、多くのドイツの大学にとってそのまま模倣できるものではなかった。また伝統的な大学では、ゲッティンゲンのように自由に制度をデザインしたり、国家による直接の管理を実現するのは難しかった。

 

18世紀、ドイツ、大学の衰退 Turner, "Prussian Universities," #2

  • Steven Turner, "The Prussian Universities and the Research Imperative, 1806 to 1848" (Ph.D., diss., Princeton University, 1973), 20–86.

 中世以来、ドイツの大学はパリ大学をモデルにして設立されていた。しかしパリと大きく異なり、世俗的な性格を強くもっていた。多くの大学が世俗権力の主導により設立されていた。

 宗教改革により16世紀に大きな変化が起こる。まずメランヒトンを中心とする教育改革運動が波及した。これによりカトリック系の大学よりプロテスタント系の大学が知的に優位な立場に立つという状況が生まれる。また領邦君主が自前の大学を大量に設立しはじめた。支配地域で必要となる聖職者をはじめとする人材を、領域内で育成するためだ。こうして大学は発展していた。

 だが18世紀には衰退局面にはいったのがあきらかであった。入学者数は1720年で4400人だったが、1790年には3400人であり、1800年には2900人になった。ただですくなくなって行く大学を数多くの大学がとりあっていた。プロテスタント系・カトリック系の大学が二重に存在しているのも状況の悪化に拍車をかけた。

 哲学部の衰退が深刻だった。上級学部で学ぶための準備機関という役割は、より以前の教育機関に奪われ、多くの学生が哲学部を経由せずに上級学部に入学する用になった。1750年以降ハレとイェーナで哲学部に入学する学生はいなかった。ゲッティンゲンでも665人の入学者のうち、60人だけが哲学部だった。給料も下がった。哲学部の教員が年100から175ターレルを受給したのにたいして、神学部、法学部、医学部はそれぞれ、338から557、200から500、100から200ターレルを受給していた。しかも上級学部の教員と違って哲学部の教員は外部で稼ぐ手段もかぎられていた。哲学部の衰退は、大学が数学、科学、歴史学の分野での発展を吸収できないことを意味した。この点は批判された。

 結局のところカネがなかった。入学者も減少していたにもかかわらず、新たな設備投資は行わないといけないのに、政府から投下されるカネの額は増えなかった。

 大学への批判が行われた。批判者には啓蒙主義に共鳴する者たち、大学ではなく貴族学校に子弟を通わせはじめた貴族たちがいた。それにともない大学に代わる新しい学術機関が台頭してきた。アカデミーが代表例である。1760年以降は批判が激化し、大学の廃止を唱えるものすら現れた。ペスタロッツィや敬虔主義の新しい教育理念が広い支持をあつめた。

 大学のイメージをなによりも傷つけていたのは学生が行う暴力行為であった。またラテン語の暗記への重点をより現代的な対象に移すべきだと強く主張された。「大学教育は教師だけがしゃべる一方通行(Alleinsprechen)で、口頭でやり取りするソクラテス・メソッド(ein mündlicher (socratischer) Unterricht)がないからダメ」(大意)と言われた。

 18世紀後半以降に現れた文芸運動も、美的感覚とウィットを重んじる立場から、大学の硬直的な知のあり方を批判した。とりわけ Gelehrsamkeit という言葉で言い表された、知識の量、ラテン語での優雅な表現を重んじる立場が批判の対象となった。それはレッシングの Der junge Gelehrte (1748) によく現れている。同族登用はとりわけ厳しい批判にさらされた。教授職が一族によって世襲されることがあったのだ。大学の教員になりたければ、娘と結婚しろという皮肉が書かれた。

 国家の大学への関与はおおきくなかった。プロイセンは基本的に大学に対して無関心であった。これは前記の批判が大学への信頼を失わせていたからだとこれまで解釈されてきた。なるほどそれはそうだろう。しかしそれだけではない。むしろ無関心は従来の政策の延長なのだ。伝統的に領邦君主たちは、大学とは領域内で聖職者をはじめとする人材を養成するための機関だった。彼らが大学に期待したのは人材を他の領域に流出させないことだった(だからときとして領内の学生が行ける大学を制限しようとした)。これらの目的を達成する限りで、プロイセン政府は大学に介入した。それゆえ抜本的な改革を望まなかったのである。

19世紀、ドイツ、大学の逆襲 Turner, "Prussian Universities," #1

  • Steven Turner, "The Prussian Universities and the Research Imperative, 1806 to 1848" (Ph.D., diss., Princeton University, 1973), 1–19.

 1790年から1840年は、学問の歴史のうえで重要な期間だ。この時期に自然科学、歴史学言語学が独自の分野として確立された。この過程で主導的な役割を果たしたのがドイツだった。しかも発展は予想もしなかった場所で起きた。大学である。歴史家の共通認識によると、それ以前の大学は学知の伝承を主な使命としていた。それが19世紀になると研究を最重要視しはじめるのだ。ゼミナールや実験室での学びに立脚して、オリジナルな研究成果を出版し、そのことにこそ価値を見いだすというあり方が確立した。18世紀のあいだ大学がむかえていた停滞を考えるならばこれは驚くべきことに思える。しかしドイツでは19世紀初頭にプロイセンを中心に改革運動が起こり、大学は上述のような重要な役割を果たすようになった。

 どう説明すべきか。三つの解釈がある。1) 伝統的な解釈は、研究こそ大学の使命と考えられるようになった要因をイデオロギーに求める。フィヒテシェリング、シュライエルマハーらの理念が変化の要因となったとするのだ。だが近年の解釈は、理念は研究重視化の産物であって、要因ではないとみなしている。2) 要因は産業化のなかで現れてきたブルジョワ意識の成立にあるという。3) あるいは大学間での競争激化に求められる。

 しかしこれらの解釈はあまりに包括的であり、当時の大学で起きていた個々の事象を説明できていない(とりわけブルジョワ意識の成立を重視する研究)。しかもそこには裏づけられていない暗黙の前提がある。研究重視の姿勢は18世紀の大学にはなく、19世紀にはじめて現れたという前提だ。この前提を確証するには18世紀の状況を調べねばならない。さらに理念を重視する解釈は、フィヒテらの理念が実現されなかったことを見逃しているし、大学間の競争を重視する解釈は、1840年以降の状況をそれ以前にあてはめてしまっている。

 19世紀前半にプロイセンでなぜ大学が重要度を増したのか。まだ未解決だ。解かねばならない。まず18世紀の大学の状況をみていく(つづく)。

神の霊と哲学の自由 福岡『国家・教会・自由』第7章

国家・教会・自由―スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗

国家・教会・自由―スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗

 表題通りのことが論じられた書物から、ホッブズスピノザによる霊(spiritus)の解釈を扱った箇所を読む。ホッブズによれば霊には三つの意味がある。空気、幻覚、そしてその他の比喩的な意味だ。この主張によって、聖書が非物体的実体を認めていた可能性が排除される。しかしこの結論には難点があった。新約聖書には非物体的な実体として天使が登場するとしか読めない箇所があるのだ。この事態を前にしてホッブズは、聖書に私たちの理解を超えることが書かれている場合は、それにはただ従うしかないと結論づけている。
 スピノザもまた霊が空気や、想像や、比喩的なことがらを指すとする。しかし彼にはホッブズにはない論点があった。霊の用法のうちに、ヘブライ人が神を擬人化したために生じたものがあるとするのだ。彼らは理解力の弱さのために、自分たちに了解できる範囲で神をとらえた。そこから霊という単語のいくつかの用法が生まれたのだ。
 これはスピノザの「適応」の理論と対応していた。啓示は受け手である預言者が理解可能なかたちで与えられる。ここから聖書のすべてを真実ととらえるべきではないという結論がみちびかれる。たとえば預言者たちは天文学について深い理解をもっていたわけではない。よって彼らの理解にあわせて与えられた啓示が、かならずしも天について正確な内容を伝えているとはかぎらない。
 むしろ啓示から読みとるべきは、その目的に不可欠のことのみである。それは神への服従であり、それによって隣人を愛するようになることである。これに関係するかぎりのことがらが聖書では尊重されねばならない。それ以外のことがらについては、自由な思索が認められねばならない。この峻別をせず、聖書から引き出すべきもの以上のものを得ようとすることから、正典をめぐる対立が起き、宗派対立が生じ、平和が乱される。
 だがこの峻別は完全な断絶を意味しない。隣人愛に人をうながす最低限の条件さえ満たしていれば、人はどのように神を理解してもかまわない。いや各人が己の納得いくかたちで理解してこそ服従は可能となる。とすると神について学問的に究めた哲学者も、啓示を納得のいくかたちで了解し、そうして神に従うのが望ましい。著者は明言していないが、ここに『神学・政治論』と『エチカ』の関係を理解するヒントがあるように思える。

初期ベネケの構想 Beiser, Genesis of Neo-Kantianism, ch. 3

The Genesis of Neo-Kantianism 1796-1880

The Genesis of Neo-Kantianism 1796-1880

  • Frederick C. Beiser, The Genesis of Neo-Kantianism 1796–1880 (Oxford: Oxford University Press, 2014), 150–160.

 ベネケの最初の著作 Erkenntnißlehre (1820) にはすでに彼の認識論の基本的な構想があらわれている。彼の目標はカントのプロジェクトの完成であった。そのために彼は認識論の基礎である、判断の理論にとりくむ。判断をするとき、精神には常に二種類の活動がある。主語によってあらわされる活動と、述語によってあらわされる活動だ。両者が一致する、ないし後者が前者に含まれるとき、判断は真となる。この意味で[どの意味でだ?]、すべての判断は分析的である。数学でもそうである。よってベネケは、数学が空間と時間をアプリオリなものとして要請するというカントの見解を否定する。
 だが主語と述語の一致からなる真なる判断だからといって、それが現実世界で成り立っている保証はない。保証は経験から獲得せねばならない。ここでふたつ難問が生じる。第一に、経験からは決して普遍的な判断は得られない。完全な帰納は不可能だからだ。第二に、私たちは表象についての知識がほんとうに外界と対応する客観的なものかを判定する術がない。
 最初の著作で前提とされていた心理学についての理解が、次の著作 Erfahrungsseelenlehre (1820) では説明される。心理学はすべての学問の基礎となる。認識論を学問にできるのは心理学だけだ。なぜなら心理学は経験的だからだ。また知識を理解するためには、心を理解せねばならない。知識は心がつくりだすものだからだ。さらに知識の対象を同定したり名指したりするために使う名称も心の活動の産物なのだから、やはり知識全般の理解に心理学は欠かせない。
 この経験主義はカントの失敗を克服するために必須である。カントは知識は経験に由来するといいながら、ア・プリオリで普遍的な命題をえようとした。矛盾を解消するためには、認識論を経験に依拠させるしかない。この点でベネケはフリースとヘルバルトにならっていた。
 経験的な心理学は観察と帰納にもとづく。ただし方法論上の洗練された議論はなく、ベネケはたかだか内観(introspection)を念頭においていただけのようだ。心理学によって、さまざまな精神の活動は、基本的な活動の組み合わせに還元されていく。これら基本的な活動の束が個々の人間の精神となる。ベネケはこの活動を能力と呼ぶのを拒否しなかった。この点で能力心理学を完全に否定したヘルバルトとは異なっていた。人間の概念や言語や理解は、外界からの刺激が起こすさまざまな活動の組み合わせと、組み合わせの反復から生じる。人間が知識をえるさいにとくに重要なのは、感覚刺激からくる知覚活動と、知覚を組み合わせる活動(とくに因果関係として組み合わせる活動)だ。以上の構想ではすべての知識は経験に由来するので、ア・プリオリな知識は存在しない。主観と客観の区別も原理的にはない。
 すると普遍的な命題はえられないのではないか。ベネケは肯定に傾いているようにみえるものの、はっきりと明言しない。むしろ数学の例をあげて普遍的命題の可能性を探る。私たちはひとつの三角形の作図から、すべての三角形の内角の和が180度と理解する。おなじように他の分野でも普遍的な命題をえられないだろうか。だがこの議論をベネケは深めていない。
 Erfahrungsseelenlehre の半分は美学と倫理学にあてられる。美学は感情を扱う。感情は刺激と精神の活動のあいだの割合から生じる。三種類あり、喜び、崇高さ、美しさである。これらの感情が倫理を基礎づける。ある行動の道徳性は、それが崇高さを引きおこすか、美しさを引きおこすかによって判断される。倫理を美学に還元する点でベネケはカントに背いた。彼に言わせればカントの実践理性はオカルト質だ。またカントが定める絶対的な倫理上の規則な個々の状況を考慮しない不合理なものだ。むしろ感情に依拠した道徳こそが、公正で正確な判断をもたらす。
 以上が初期のベネケの基本構想である。