内藤朝雄 『いじめと現代社会』(双風舎、2007年)

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

 キャンペーンブログの企画に応募してもらった『いじめと現代社会』。ようやく読み終えました。以下、内藤氏の議論の中で、死刑について論じた箇所と、コミュニケーション操作系のいじめについて論じた箇所を取り上げて、少し書いてみたいと思います。

論の飛躍した死刑論

 『いじめと現代社会』には、「『教育的』憎しみが蔓延する社会 - 青少年ネガティブキャンペーンに見る大人社会のゆがみ」と題されたインタビューが収録されています。このインタビューの最後の部分で、内藤氏は死刑制度についての考えを述べています。

 内藤氏の立場は、「理念的には死刑に賛成ですが、警察の捜査能力を考えて、技術論的に死刑は不可能だから廃止すべし」というものです(72頁)。
 では、どうして内藤氏は、死刑に理念的に賛成するのでしょうか。それは、理念的に死刑に反対することが、人間の尊厳は崇高なものだという価値を掘り崩してしまうと氏が考えるからです。
 内藤氏によれば、人間の尊厳は崇高な価値を持ちます。ここで当然、人間の尊厳が崇高な価値を持つ理由は何なのか、と問うことができます。しかし内藤氏は逆に、「人間の尊厳が崇高な価値を持つ根拠は何か」という問いが現れないように、「人間の尊厳が崇高だ」という考えを社会にでっち上げて根づかせる必要があると論じます。人間の尊厳が崇高だという考えは、自明ではなく、また簡単に掘り崩されうるからこそ、そのような考えは社会に捏造される必要があるというのです。
 ここまでは、私としても理解できます。しかし、このような人間の尊厳観を、内藤氏が死刑問題に関連させはじめるあたりから、議論が飛躍していきます。
 内藤氏は次のように述べます。

 理念的死刑廃止論者にとっては、「無限」マイナス「無限」はゼロになりません〔=殺人を犯した人物の尊厳から、殺害された人物の尊厳を差し引いたとしても、なお殺人を犯した人物に守られるべき尊厳が残る〕。

 つまり「無限」とは、足したり引いたりできないという立場です。それは理念的にはありうるのですが、それを認めると、なぶり殺しをした者が大手を振って生きていけるようなことが生じてしまいます。これでは、人間の尊厳の「無限」性が崩れてしまいまいます

 つまり、他人をなぶり殺しにして、他人の「無限」をゼロにしてしまった人間も、「無限」マイナス「無限」は「無限」だから死刑にしてはいけないとするならば、実際問題として被害者の側の「無限」が(虫けら同様に)ゼロになり、そうした状況がまかり通っていることを目の当たりにしながら、人々は生きることになります。

 統計的な数値の多少にかかわらず、そういう人間の尊厳のゼロ化が法的に是認されたり、特殊日本的とはいえ「人権派」を名乗る弁護士を中心とした勢力によって、社会的に正当化されたりすること自体が、人権にとって破壊的な効果をおよぼします(71-72頁、強調引用者)。

 人間の命の価値は崇高である。だから、たとえ殺人を犯した人物であっても死刑にすることは認められない。よって、死刑制度は廃止するべきだ。内藤氏によれば、このように主張する理念的死刑廃止論者の思想や行動は、「人間の尊厳のゼロ化」を促すものです。

 この議論では、「人間の尊厳の崇高さを担保するのは、人間の尊厳を侵害した者に下される刑罰の多寡である」ということが前提とされています。殺人を犯したものにも人間の尊厳を認める(=理念的に死刑に反対する)ことが、「人権に破壊的な効果をおよぼす」と述べられていることからも、殺人を犯した者への刑罰の多少が、人々の人権意識に大きな影響を及ぼすと内藤氏が考えていることがわかります。しかも、それは「統計的な数値の多少にかかわら」ないのです。

 このような内藤氏の考えに、私は賛同できません。被害者の人権が尊重されているかどうかの基準を、加害者に下される刑罰の多寡と結びつけ、その多寡をさらに人々による人権尊重の度合いと関連させるというのは、議論に飛躍があります。

 そもそも、実際に死刑を廃止した国があるという事実を、内藤氏はどう考えるのでしょう。死刑を廃止した国で、特に「人権に破壊的な効果がおよぼ」されたという話は聞きません。

 確かに、死刑を廃止した国の中には、内藤氏が言うところの技術的見地から廃止に踏み切ったところもあるかもしれません(私は各国がどのような理由で廃止したのかは知らない)。しかし、上述した理念的廃止論者の考えに沿って、死刑を廃止した国もあるのではないでしょうか。もし仮に、上述したような理念的見地から死刑を廃止した国があった場合、内藤氏の考えでは、その国の社会では、以前より人間の尊厳が尊重されなくなったことになります。

 このように、内藤氏の死刑論は、論理的に飛躍があり、また事実にも即していないように私には思えます。

コミュニケーション操作系のいじめについて

 『いじめと現代社会』の巻頭と巻末には、それぞれ本田由紀氏と宮台真司氏との対談が収録されています。

 この2つの対談で、内藤氏が本田氏とも宮台氏とも認識を異にしているのは、「コミュニケーション操作系」と呼ばれるタイプのいじめについてです。以下で、この対立点をすこし紹介します。

 コミュニケーション操作系のいじめというのは、直接暴力を振るうようないじめではなく、特定の人を無視したり、グループから排除したりすることで行われるいじめです。次のような内藤氏の文章が、コミュニケーション操作系のいじめの特質を、よく伝えるかもしれません。

 長くいじめの研究をしていて、頭では理解していても、いつまでも不思議な感覚にとらわれるのは、コミュニケーション操作系のいじめだけで自殺する児童生徒のケースである。しかと、くすくす笑い、悪口、会話の応答の際の(おそらく意図的な)ちょっと無表情や返答の時間的遅れ、といったものの積み重ねによって、本当に自殺してしまうのだ(144頁)。

 本田氏は、このような「コミュニケーション操作系のいじめ問題に関しては、その息苦しさといったものがむしろ高まっている」と論じます(19頁)。かつては勉強ができれば、ある程度は尊敬された。しかし、今では尊敬されない。代わりに尊重されるのは、コミュニケーション能力である(だからモテ系、非モテ系などという対立に関心が集まる)。この能力を集団内で行使できるかどうかを基準に、生徒児童のあいだで序列化が起きている。このように本田氏は考えます。

 一方宮台氏は、いじめの背後に集団内での同調圧力があることについては、内藤氏に同意します。しかし、その同調圧力が由来について、着目点を異にします。その際に宮台氏が注目するのが、サブカルチャーの推移です。

 かつては現存の社会秩序、あるいは社会秩序に対するアンチテーゼに、若い世代は自己を託すことができた。しかし、70年代後半からはそれができなくなった。以後は自己像を維持するための戦略として、その場その場のコミュニケーションで、うまく立ち振る舞われるかが重要になる。現在学校で見られる同調圧力は、コミュニケーションの場でうまく立ち振舞えないと自己像を維持できない若者のあり方に起因する(側面もある)。宮台氏の立場を乱暴に要約するとこうなります。

 しかし、内藤氏は本間氏にも宮台氏にも同意しません。

 まず本田氏に対しては、コミュニケーション操作系のいじめが悪化していることはないと反論します。暴力を背景にしたいじめはかつてに比べて困難になった。実はコミュニケーション操作系のいじめを確固たるものにするには、暴力の行使をちらつかせる必要がある。現在では暴力の担保がなくなった以上、コミュニケーション操作系のいじめの悪質さも緩和しているはずである。

 それなのにコミュニケーション操作系のいじめが悪質化している印象を観察者がもつとすれば、それは、暴力系のいじめが後退した結果、相対的にコミュニケーション操作系のいじめが目立つようになったことに原因がある。

 宮台氏に対しては、内藤氏は次のように返します。

 人口層の主流は、(中略)流行の言説どおりにリアルに生きていたかどうか、疑わしいと思います。文化評論家が学生運動の時代と呼ぶ時代(中略)に、リアリストの岸信介は、デモをする者よりも野球を見ている者の方が多いといってのけました。私は岸信介の方が正しいと思います。文化評論家の時代区分どおりにリアルに生きている層は、人口のごく一部です(171頁)。

 その上で内藤氏は次のように論じます。昔から大衆は、理念や秩序よりも、その場その場でのコミュニケーション能力が過剰な優位を占める秩序を生きてきた。だから、近年になって、コミュニケーション能力の優位が高まったということはない。ただし、家柄や学歴がものをいわなくなった分、コミュニケーション能力が優位になったかのように見える可能性がある。

 この対立点は深めていくと、いろいろな問題点につなげていくことができると思います。内藤氏と本田・宮台氏の一番の対立点は、単純化してしまえば「今の学校は昔よりましなのか」ということです。内藤氏はこの点を肯定します。暴力的ないじめが減り、若い世代による犯罪も減少している。少なくとも20年前よりはましである、という具合です。それよりも問題なのは、青少年の凶悪化が問題だ、フリーターはけしからん、ニートはけしからん、と騒いでいる大人社会の方にあるのではないかと内藤氏は考えているようです。

 それに対して本田氏や宮台氏は次のように主張しています。確かに暴力的ないじめは相対的に減少した。しかし、現在には現在の状況に即したいじめが存在する。そのようないじめは以前の暴力的ないじめと同じく、一定の数の生徒児童の人権を侵害している。また、そのようないじめの発生率を極小化するためには、単に学校という制度の仕組みに目を向けるだけでは不十分である。学校を超えた、より大きな社会構造の変遷を考慮に入れた上で対策を立てる必要がある。

 さて、どうでしょう。私は何か主張するための材料は持ち合わせていないので、何とも言えません。