役者は仮面の下で泣く クィンティリアヌス『弁論家の教育』

 今日はこちらの作業の続きを行いました。相変わらず神経と体力を使う仕事で終わるころには消耗しきってしまいます。しかしつらい中にも今日は古代の演劇に関する衝撃的な記述に出会いました。それは次のようなものです。

私はしばしば悲劇役者と喜劇役者たちが何かかなり痛ましい場面のあとで仮面を外し、まだ涙を流したままで出て行くのを見た。(クィンティリアヌス『弁論家の教育』6.2.35)

Vidi ego saepe historiones atque commoedos, cum ex aliquo graviore actu personam deposuissent, flentes adhuc egredi.

 紀元後1世紀のローマ悲劇、喜劇の上演の際には仮面の下で泣く役者たちがいた!読んでいて度胆を抜かれました。まさかこんな証言が残っているとは。たしかにキケロも悲劇役者の眼が仮面の下で燃えていたのをしばしば見たと言っているので、泣いている人がいても不思議ではありませんよね。

 しかしクィンティリアヌスは一体どこで役者たちが泣きながら出て行くのを見たのでしょう。標準的な英語訳では「泣きながら舞台から出て行くのを見た」と訳されている。この場合クィンティリアヌスは観客席で目撃したことになります。でも役者が舞台上で仮面を外すでしょうか?

 あるいは演劇終了後、楽屋で仮面を外した役者が劇場から出てくるのを出待ちしていて、その時に彼らが泣いているのを目撃したのでしょうか。いや楽屋とか出待ちとかは冗談ですけど、とにかく演劇終了後に役者が泣きながら劇場から去るのを見たのでしょうか?

 とはいえいくらなんでも劇場から去るころには泣きやんでいるのではないでしょうか。万が一あまりに感情が高ぶって劇場から去るときまで涙が止まらない人がいたとしても、そんな人を「しばしば」目撃するものでしょうか?

 とするとやはり舞台から出て行くのを見たのか。しかし舞台上で仮面を外すとか…と以下無限ループに突入します。

 クィンティリアヌスにとってみればこの演劇についての記述はあくまで自らが考える弁論技術を解説する際に現れる一つの挿話にすぎません。彼はそれが後世の人にとって、彼が生きた当時の演劇についての重要な手掛かりを提供することになるとはまったく考えていなかったのでしょう。もうちょっと脱線を通じてこの挿話について書きくわえてくれていればと思わずにはいられないです。