古代ローマの笑い クィンティリアヌス『弁論家の教育』第6巻

弁論家の教育〈3〉 (西洋古典叢書)

弁論家の教育〈3〉 (西洋古典叢書)

  • クィンティリアヌス『弁論家の教育 3』森谷宇一、戸高和弘、吉田俊一郎訳、京都大学学術出版会、2013年、3–100ページ。

 西洋古典叢書にて進行中の『弁論家の教育』全訳企画の第3巻です。全5巻で完結予定なので中間巻となります。収録されている6巻、7巻、8巻のうち最初の6巻を読みました。最初に序文が置かれており、そこでクィンティリアヌスは10歳になっていた息子(これまたクィンティリアヌスという名前)の死を嘆いています。そもそもこの本は彼のために書いていたのに、その彼が死んでしまった今どうして完成させる必要があるだろう?「しかし私は生きており、生きる指針を何か見つけなくてはならないのであって、逆境の唯一の慰めは学芸であると考えた最高の識者たちを信じなくてはなりません」。こうしてクィンティリアヌスは執筆を続けることになります。この序文には「血の気の失せた冷たいおまえの体を抱いて、おまえの最後の息吹を受け取ったのに、なお他人と同じ空気を私は吸うことができたのだろうか」とあります。「死んでいく者の吐く最後の息を近親者が吸うという習慣があった」(9ページ注1)そうな。

 続いて弁論の結論部のつくりかたが論じられます。そのやり方のうちの一つはこれまで論じてきたことをまとめることです。ここで注意すべきは以下のことだとクィンティリアヌスは言います。

数え上げるべきと思われるものは、何らかの重みを持たせて述べ、適切な警句をもって昂揚させ、必ず文彩を用いて変化をつけねばなりません。さもないと、裁判官の記憶を信用していない者がするようなただの繰り返しになり、どんなものよりも厭わしいものになってしまいます。

裁判官を読者に置きかえれば論文についても言えそうです。

 結論の次は感情が論じられます。これは「裁判官の心を動かし、われわれの望むとおりの状態にし、あたかも作り変えてしまうということ」です。「裁判官の精神に力を及ぼし、真実の観察そのものから考えを逸らさねばならない場合こそ、弁論家の固有の仕事があり」、「これこそ裁判を支配するものであり、ここでこそ雄弁が王者となる」と言われます。実に弁論の「いわば生命と神髄とはそれほどまでに感情のうちにあるのです」。

 裁判官や聴衆の心を動かすためには、弁論家自身も心を動かされていなくてはなりません。「いったい、人を悲しくさせようと弁論をしている私自身が悲しんでいなかったら、私の話を聞く者が悲しむでしょうか」。そこでクィンティリアヌスは非常におもしろい逸話を披露します。

私はしばしば、悲劇や喜劇の役者たちが、何かかなり痛ましい場面の後で仮面をはずし、まだ涙を流したままで退場するのを見ました。他人の書いたものを実演するだけのことが、ほんとうではない感情をもってこれほど人を燃え立たせるのであれば、われわれは、その種のことを自分で考え出して、訴訟当事者と同じ境遇に立って心を動かされることができるようでなければならないのですから、どうしましょうか。

 続いての笑いについての議論こそ6巻の中核をなすものです。笑いの「力はおそらく最も支配力が強く、抵抗することが最も困難なものです」。しかもそれは「主に素質と機会とにかかって」おり、しかも「練習も教師もない」。ちなみに人を笑わせる「能力がデモステネスには欠けており、キケロにはその節度が欠けていた」。キケロは「法廷の外のみならず弁論そのもののなかにおいてさえ、あまりに笑いを追求しすぎる者だと考えられています」。なんと「キケロの洒落についての3巻の本」があったらしい!

 笑いについての章では笑いを生みだす方法が分類され、それぞれのカテゴリーについて豊富な実例が引かれます。理論的洞察にしても実例にしても貴重な記録なのでぜひお読みになってください。キケロが「ドラベラの妻ファビアが、自分は30歳だと言ったとき、『それは本当だ、私はもう20年も彼女からそう聞いているのだから』」と言った話などは人類の進歩のなさを感じます。

 笑いのあと対論と判断・熟慮について論じて第6巻は終わります。