ルネサンスイタリアのアリストテレス主義と新プラトン主義

  • Edward P. Mahoney, "Agostino Nifo and Neoplatonism," in Il neoplatonismo nel Rinascimento, ed. Pietro Prini (Rome, 1993), 205-231 [reprinted in Mahoney, Two Aristotelians of the Italian Renaissance: Nicollo Vernia and Agostino Nifo (Aldershot: Ashgate, 20000)].

 15世紀の末から16世紀前半に活動したアリストテレス主義者であるアゴスティノ・ニフォの著作が新プラトン主義の史料をどのように使っているかを調べた論文です。著者のマホーニィはイタリアルネサンスアリストテレス主義研究の第一人者です。ただなぜかまとまった著作はない。

 この論文はあまり深く個別の学説には立ち入らずニフォの著作を時系列順に概観していくという体裁をとっています。なので読み手の問題関心によって面白く思う点は異なってくると思います。

 私にとって勉強になったのはテミスティオスとプロティノスについて述べた個所。というかそもそもこの点について勉強するためにマホーニィを読むようにとヒロさんにアドバイスされたのです、はい。

 フィチーノの『エネアデス注解』によると、人間から離れてある知性、人間の霊魂のうちにある知性、そして人間の霊魂、この三者の関係はそれぞれ太陽、太陽光線、人間の目にたとえられます。つまり、

人間から離れてある知性 - 太陽
人間の霊魂のうちにある知性 - 太陽の光線(たち)
人間の霊魂 - 目

 この光のたとえを用いることで、一つしかない知性から以下に各人間が持つ知性が生じるかということが説明されます。一つの太陽がいろいろな光線に分かれて、それが一つ一つの目に受容されるように、一つの知性が人間たちの個別の知性として宿るというわけです。

 『エネエアデス』注解に現れることから明らかなように、フィチーノはこの学説の解説をプロティノスの作品に基づいて行います。さらに彼はそこでテミスティオスが同じ学説をアリストテレスとテオフラストスに帰したと書いています。

 なるほど。実はこの光のたとえはカルダーノも用いていて、私はそれをテミスティオスからとられたものだと考えていたのですけど、こういうフィチーノの記述を見ると、カルダーノはむしろ彼の『エネアデス注解』から光の比喩を取り出したのではないかと考えたくなります。

 もう少し調査しましょう。