長生きアリストテレス主義 Grant, "Aristotelianism and the Longevity of the Medieval World View"

 12世紀の終わりから17世紀のなかばまで、西洋の知識人たちが世界を解釈するさいの枠組みとして支配的な地位を占めていたのはアリストテレス哲学でした。どうしてこれほど長きに渡ってアリストテレス主義は支持され続けたのでしょうか。この問いに答えようとした古典的な論文を読みました。

  • アリストテレス主義と中世的世界観の長命」Edward Grant, "Aristotelianism and the Longevity of the Medieval World View," History of Science 16 (1978): 93-106 [repr. Studies in Medieval Science and Natural Philosophy (London: Variorum Reprints, 1981), XVI].

 アリストテレス主義が長続きした理由としてグラントは二つの要因を挙げています。一つは彼の提示する自然像が単純であったことです。月下界と天界との領域に大きく分けられ、それらがそれぞれエーテルと四元素から成っており…といった整然とした体系は「約450年にわたってヨーロッパの知性を心理的・知的に満足させてきた」。

 しかしこの大きな枠組みのもとで行われた議論は決して一枚岩ではありませんでした。この点がグラントがあげる第二の要因です。中世のアリストテレス主義者たちは、アリストテレスがあいまいなまま残した箇所を精緻に説明しようとする過程で、様々な新たな論点を生み出し、そのそれぞれについて激しい論争を戦わせていました。この論争を行う土壌となったのが、「問題集」という著述の方式でした。そこでは様々な問題が一つ一つ取り上げられ、それらについて賛成と反対の立場がそれぞれ提示され、最後に著者の見解が述べられました。

 「問題集」形式の著述が広まることで生じた帰結の一つは、個々の問題の独立性が高まることで、各問題が全体との関連性を考慮されずに検証されるようになったということです。そのため中世を通じて、何らかの統合的な思考が形成され、アリストテレスの宇宙像を崩壊させるということが起こることがなくなりました。

「問題集」著作において自然に関する思考が極度に断片化(atomization)したことは、中世のスコラ学者たちをしてデカルトニュートンの『プリンキピア』のようなスコープとスケールを持つ包括的で体系的な作品を生み出すこと(あるいはそのような作品を生み出すことを試みることすら)を妨げた。

 この結果、コペルニクスガリレオの挑戦を受けるまでアリストテレス主義はその命脈を保つことになった。これがグラントが与える見取り図となります。