エピクロスの神

Epicurus and the Epicurean Tradition

Epicurus and the Epicurean Tradition

  • David Sedley, "Epicurus' Theological Innatism," in Epicurus and the Epicurean Tradition, ed. Jeffrey Fish and Kirk R. Sanders (Cambridge: Cambridge University Press, 2011), 29–52.

 著者セドレーについてはこちらをどうぞ(コメント欄も必読)。

じつにSedleyらしい(何を偉そうに),ハッとさせられる着眼点,どこまでも明晰な議論,しかし結論は冷静に考えると『やはり行き過ぎでは?』と言いたくなるような……

 まさにこの論文もこんな感じです。切れ味鋭く問題を提示・分析し、次々と主張を提示していきます。

 問題はエピクロスが神をどのようなものとみなしていたかについてです。鍵となるのはキケロの対話篇『神々の本性について』に現れる次の文章です。エピクロス派を代弁する話者ウェッレイウスの言葉です(1巻43–45節;山下太郎訳。ただし細部を少し変更)。

 というのも、自然そのものがすべての人間の心に神々の概念を刻み付けている事実を根拠として、エピクロスただ一人が、何よりもまず神々の存在を認めたからである。じじつ、いかなる国民あるいは民族であれ、神々にたいするある種の先取観念は、他人に教わることなしにそなえているものではないだろうか。それはエピクロスが「プロレプシス」と呼んだもの、すなわち事物について心の中であらかじめ形成されているある種の観念のことであり、それなしに何かを理解したり、探求したり、議論したりできないもののことである。この議論の説得力や有用性については、神のごときエピクロスの『規準について、あるいは基準論』という書物の中で学ぶことができる。

 したがって、わたしたちの探求の基礎がみごとに規定されたことは、あなたがたの目にも明らかであろう。すなわち、神々についての見解は、なんらかの制度や慣例や法律によって定められたものではなく、一人残らずすべての人間にとって確実な共通の考えとして存在するのであるから、私たちは神々が存在するとみなす必要がある。言い換えるなら、わたしたちは神々の観念を植えつけられたもの、あるいはむしろ生得のものとしてそなえるがゆえに、すべての人間の本性が同意する事柄は真実であるとみなすべきであり、それゆえ、神々が存在するという考えは当然是認すべきものなのである。さらにこの考えは、哲学者であろうと学識のない者であろうと、すべての人間のあいだでほぼ認められているので、わたしたちが先にふれた先取観念、あるいは神々にかんする生得の観念(かつて誰もその名で呼んだことのない概念についてエピクロスが「プロレプシス」と名づけたように、新しい物事には新しい名称が必要である)をそなえていると認めなければならない。それゆえ、わたしたちは、神々が幸福であり不死であると考えるような先取観念をそなえている。

 セドレーの解釈によればここで主張されていることの肝は、(ほぼ)すべての人間は本性的に神々が存在すると考えており、それゆえその考えは神々についての先取観念とみなしうる。先取観念というのは事柄についての正しい判断の基礎となるものなので、神々についての先取観念が存在するということは神々が存在するということを意味する。さらにセドレーによれば、神々が幸福で不死であるという観念も、生まれつき明瞭な形を取っているわけではないが先取観念として生得的に人間に備わっており、エピクロスの自然学を正しく学びさえすれば万人に同意されるものだとします。

 しかしここで神々が存在するというのは、神々が外界に存在するという意味ではありません。むしろそれは人間が神々についてそれが不死であり幸福であるという観念を(もし正しい教育を受けたならば)形成するという意味で、神々は存在すると解釈されなければならないとされます。

 なぜ人間はこのような神々の観念を生得的に有しているのか?それは人間(に限らずすべての動物)が快楽を最大化するという生得的には欲求を持っていることに求められます。このような欲求を達成するために、人間はみずからが理想とする幸福で不死で乱されることのない生を送るモデルとして神々の観念を生得的に有するに至ったのです。エピクロスにとって神々が存在するというのは、このような人間にとってのモデルとして観念的に存在するということを意味でした。

 非常に挑発的な解釈ですね。キケロ、フィロデモス、ルクレティウスから鍵となる文が次々と引用され、それがみずからの主張に合わせてさばかれていくところは読んでいて実に爽快です。

 より穏当と思われる見解は、ロング『ヘレニズム哲学』京都大学学術出版会、62–73ページにあります。そこでは神々が存在するというのはつまり神々が実際にこの世界のどこかに存在することだという前提で議論が進められています。

ヘレニズム哲学―ストア派、エピクロス派、懐疑派

ヘレニズム哲学―ストア派、エピクロス派、懐疑派