ライプニッツと生命の科学 スミス『神的機械』序章

Divine Machines: Leibniz and the Sciences of Life

Divine Machines: Leibniz and the Sciences of Life

 昨日に引き続きスミスの『神的機械』を読み進めました。今日は序文です(1–21頁)。伝統的な科学の発展についての記述は、17世紀にまず物理学で大きな変化が起こり、続いて18世紀に化学の分野で変化が起こり、そして最後に19世紀半ばのダーヴィンによって生物学に巨大な変動がもたらされたとしてきました。この図式では17世紀の生命科学という問題が注目されてこなかったことも頷けます。

 しかし17世紀に機械論哲学が起こったときにこそ、生命と非生命の境界線引きの問題が重要な課題となって浮上しました。たとえば人間の霊魂を除くすべてを物質の運動と衝突だけから説明しようとするデカルトにとって、生命現象の説明は最大の難問でした。実際デカルトが苦心して定式化した目的の概念を用いない動物発生理論は多くの人にとってあまりに思弁的で経験的根拠がない学説だと当時みなされました。これに対して別の一群の人々はデカルトとは反対方向に進み、世界の全領域を生命現象としてとらえようとします。ライプニッツはこのような人々のひとりでした。

 ライプニッツは世界というのはそのどの部分をとっても生命という魚が泳ぐ池のようなものだと考えていました。世界のどこを切り取っても、そこには無限に包みこみ合う有機体が見出されるというのです。この有機体の理論は彼の中期思想に顕著に見られるとされます。しかし後期の彼は、この微小な有機体は認識と欲求を備えた単純実体、つまりモナドにその存在の根拠を持つと主張します。ここからライプニッツの哲学を身体を備えた有機体をその基礎にすえたものと考えるか、それともモナドを中心にすえたものと考えるかという論争が生まれます。これに対して著者は、有機体がモナドによって説明できるということは、有機体がモナドへと還元されてしまうことを意味しないと主張します。むしろライプニッツアリストテレスと同じく生命現象をモデルにして自然(そして自然を支える神の知恵)を説明しようとしており、その核となる有機体の理論をモナドは支えているのだということになります。

 このような観点にたってライプニッツ有機体の哲学に着目することでいくつかの洞察を引き出すことができると著者はします。第一にライプニッツは最初、個々の動物が全体としてどうして統一的な機能を果たすかということに注目していたが、徐々に微小な有機体の集合がどうして目に見える構造体を作り出すかということに興味の焦点を移していったということがわかります。第二に彼の理論は実験・観察によって得られた同時代の知見に大きく規定されていたことが明らかとなります。最後にライプニッツ形而上学者としてではなく生命について探求していた哲学者とみなしていた18世紀フランスの人々から、われわれは多くのことを学ぶことができるであろうとされます。