ヴェネツィア共和国のパドヴァ大学振興策

The Universities Of The Italian Renaissance (Johns Hopkins Paperback)

The Universities Of The Italian Renaissance (Johns Hopkins Paperback)

  • Paul F. Grendler, The Universities of the Italian Renaissance (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 2002), 3–40.

 イタリア大学史の基本書からボローニャパドヴァ大学の歴史を扱った部分を読みました。パドヴァ大学は1222年にボローニャから教師と生徒たちが移住してくることで成立したと言われています。その初期の歴史について詳しいことは分かっていないものの、とにかく都市のコムーネも、その後都市を支配したカッラーラ家も大学の発展のための援助をしてきました。1405年に町を支配下においたヴェネツィア共和国も大学の隆盛を図ります。援助金の額を増やし、周辺の教育機関を閉鎖し、その上共和国の市民がパドヴァ大学以外で学位を取得しようとした場合は罰金を課すという施策をとります。

 ヴェネツィアの支配がはじまった直後の教師たちの名簿が残っています。それによれば大学には29人の教員がいました。そのうち16人が医学および自由学芸を教え、11人は法律を、残り2名はstudent rectorでした。これは当時イタリアではボローニャパヴィアペルージャにつぐ大きさでした。

 しかし1457年に危機は訪れます。この時の報告によると通常は800人程度いた学生数がついに300人にまで減少してしまったというのです。幾人かの教授はあまりに授業をすっぽかすものだから学生に愛想をつかされる。かつての有名教授もいまではよぼよぼ。法律担当教員が2人欠員。さらにコンスタンティノープル陥落(1453年)によりイタリアの政治情勢が不安定化し学生が来なくなっていた。これらの要因が考えられました。

 ヴェネツィアにとっては看過できない事態です。支配しているパドヴァに多くの学生が訪れることは、彼らがお金を落とすことを意味します。アルプス以北から人々がやってくることで交易の機会が拡大するとも為政者たちは睨んでいました。また優れた大学が領域内にあることは共和国に威信をもたらします。さらに大学は自国の行政を担う人々の教育機関でもあったため、そこでの教育水準は高い水準で保たれていないと考えられていました*1

 ヴェネツィアは矢継ぎ早に対策をとります。無断で都市を留守にする教授に罰金を課す。パドヴァ以外で学位をとった人間は共和国内で公職につけないようにする。都市ヴェネツィアでの小規模な2つの学校での学位授与を禁じる。11月にはじまる学期の授業予定を5月には提出させることで、学生があらかじめ誰が教えることになるか分かるようにする。ポストの数を増やす。パドヴァヴェネツィア出身者がポストを得ることを制限する。高額の俸給を条件にして、フェラーラパヴィア、ピサ、ローマ、シエナから有名教員を誘致しようとする。

 これらの施策は功を奏し、1479年の時点で300人の学生がアルプス以北からやってきて在学していると報告されています。アルプス以北の学生が全学生の3分の1以上を占めるとは考えにくいので、この時点での学生数は900人から1000人のあいだ程度の数に達していたと考えられます。こうしてシェイクスピアが「麗しきパドヴァ、学芸の揺籃」と呼ぶことになる繁栄の礎が築かれました。

*1:児玉善仁『イタリアの中世大学:その成立と変容』名古屋大学出版会、2007年、333–334頁