見えないものを見させる図版 ヴェサリウスと瀉血論争

Picturing the Book of Nature: Image, Text, and Argument in Sixteenth-Century Human Anatomy and Medical Botany

Picturing the Book of Nature: Image, Text, and Argument in Sixteenth-Century Human Anatomy and Medical Botany

  • Sachiko Kusukawa, Picturing the Book of Nature: Image, Text, and Argument in Sixteenth-Century Human Anatomy and Medical Botany (Chicago: Chicago University Press, 2012), 180-97.

 16世紀の医学分野では瀉血をめぐる論争が起こっていました。1514年、パリを「横腹の痛みdolor lateralis」が襲います。医師のPierre Brissotはこの病に際して、痛む箇所の反対側のなるべく離れた場所から瀉血をほどこすというアラビア医学者たちの治療法に代えて、痛む箇所と同じ側から血は抜かれるべきであり、これがガレノスの支持する治療法だと主張しました。彼を支持する医師が現れる一方で、その治療法を激しく批判する医師も現れ、1530年代には「横腹の痛み」にどう瀉血をほどこすかは医師たちのあいだで最も激しく議論される論点となっていました。

 1533年にパリにて医学を学びはじめたアンドレアス・ヴェサリウスは、38年にパドヴァ大学の解剖学の実演者(ostensor)にして講師に任命されました。同年に出版された『六枚の図譜』には6つの図版が含まれていました。ヴェサリウスによるとこれらは医学部の教師にも学生にも大変人気があるもので、これのみで解剖学を学ぶことはできないものの、少なくとも記憶の定着を促すという利点があります。その中の二番目の図版で彼は、奇静脈が大動脈の右側から出ているのだから、「横腹の痛み」の際には右腕の肘をひらいて瀉血するべきだと主張しました。

 翌39年に出された著作の中でヴェサリウスは、ガレノスは奇静脈が心臓より下より出ていると論じているとみなし、この点でガレノスは間違ったとしました。ヴェサリウスいわく、「この静脈の起源の問題に関しては、目による証拠(fides oculata)以外の証言を付け加えることはできない」。このことはパリ、パドヴァ、ルーヴァン、そしてその他のちで何度も行った公開解剖実習の場で多くの人の目によって確認されていることであるとヴェサリウスは強調します。このような論拠に加え、ヴェサリウスは自らの見解を説明するために「数学者の方法にしたがって」問題となる血管だけが描かれた図版を用意しました。この単純化された図版により、彼はどんな身体にも当てはまる奇静脈についての主張をなそうとしたのです。

 ヴェサリウスが1540年にボローニャでおこなった解剖実習に参加した医学部学生が残した記録が残っています。それによるとヴェサリウスは解剖中に自分が描いた絵を見せて、聴衆にそれを解剖中の人体と比較させました。その学生いわく「絵は[人体]と完璧に対応していた。私はそれを自分の目で見たのだ。すぐ近くにたって」。しかし実のところ、ヴェサリウスが描いたような奇静脈は人体にはありません。それでも少なくとも一人の学生はヴェサリウスの図が人体と完璧に対応していると説得されたのです。学生が「自分の目で見た」ものはヴェサリウスの絵に描かれていたものだったのです。図版はヴェサリウスの解釈と人体が正確に対応しているということを事実として確立するための道具として機能していたと言えます。