- 「アリストテレス自然哲学の16世紀における変容」Charles Lohr, "The Sixteenth-Century Transformation of the Aristotelian Natural Philosophy," in Aristotelismus und Renaissance: in memoriam Charles B. Schmitt, ed. Eckhard Kessler, Charles Lohr and Walter Sparn (Wiesbaden: Harrassowitz, 1988), 89–99.
大家による野心作です。中世のスコラ学者たちはキリスト教の教義(たとえば三位一体の神)を理性によって証明することはできないと考えていました。しかし同時にそのような教義が哲学上の教えと矛盾することもないとみなしていました。それのみならず哲学、とりわけ形而上学は啓示神学を学問的に発展させるための基礎を提供するとされました。こうしてトマス・アクィナスやドゥンス・スコトゥスは有限なもの/無限なもの、創造されたもの/創造されていないものといった非アリストテレス的な存在の階層構造を、存在を存在として扱う形而上学の基礎にすえることになります。15世紀の終わりからイタリアで起こった論争(参照)は、このような無限や創造というキリスト教的観念と混じり合ったスコラ学と、そのような神学的配慮なしにアリストテレスを読む世俗的アリストテレス主義との対立としてとらえることができます。この対立のなか、スコラ主義の伝統を受け継ぐ人々は、霊魂の不死を形而上学的に証明できると主張するようになりました。こうして世界がアリストテレスの自然学的な枠組みではなく、キリスト教の教義によって規定された形而上学的枠組みによって解釈されるようになることで、自然哲学の領域がアリストテレス哲学から切り離され独自の道を歩むことができるようになりました。この意味で、ガリレオ以前にすでにあった自然哲学の自律性というのは、中世スコラ学が開始した形而上学の帰結としてとらえることができます。
まだうまく読めていないのですけど、「パリ系のスコラ学とイタリアの世俗的アリストテレス主義の対立があった」と漠然と表現されていることを、アクィナスとスコトゥスの形而上学によって変容させられたアリストテレス主義と、そのような回路を経ずに発展したアリストテレス主義との対立として理解するという視点は押さえておくべきもののように思えました。自然哲学のアリストテレスからの切り離し云々については消化しきれていませんし、 納得もできていません。