なぜビッグ・ピクチャが描けないのか  Christie, "Aurora, Nemesis and Clio"

 科学の歴史を一つの統一的な視点から広い時代と地域を見渡すかたちで記述してくれるような作品、たとえばギリスピーの『客観性の刃』(邦訳が今年再版されました)のような作品が科学史の分野で現れなくなってから久しいです。科学の社会史と総称される研究群は、従来のように過去の科学理論をそれだけで取り出して考察するのではなく、科学が政治、宗教、階級、教育制度、特定の地域といったさまざまな要因によって強く規定されている活動だという立場を打ち出しました。これにより何が起こったか。科学史家は自分が扱っている科学の分野の知見だけでなく、それを媒介していると考えられる様々な政治、経済、社会、文化的背景を考察するための別の学問的方法論をも習得せねばならなくなりました。結果として科学史のビッグ・ピクチャを描くための要求は非常に高いものになりました。

 著者はこれからの科学史ではかつてのように科学の進歩(e.g. 客観性が次第に増大する)とか、生産力の増大が科学的進歩を可能にするとか、そういう統一的な視点から一体性を持った歴史を書くことはできない。これからの科学史は必然的に様々なファクターを含みこんだ雑多な性質(heterogeneous)なものになるだろうとしています。それでももし科学史のビッグ・ピクチャを描くことができるなら、それは権力(power)を分析の焦点としたものだろうとされます。科学に関係する人間の活動を権力をキーにして分析することで、統一的な歴史が描けるかもしれないというのです。

 これが書かれてから20年近くたった今からすると、権力についての展望はミシェル・フーコーの影響が色濃く残る90年代初頭の研究状況の反映であって、その後の科学史のトレンドの予想としては少し的外れであったかなという感があります。しかし前半の方法論習得の要求が高まることが統一的な歴史記述を困難にしているという指摘は、今でも生きていると思います。

関連書籍

客観性の刃―― 科学思想の歴史[新版]

客観性の刃―― 科学思想の歴史[新版]