医学知による異端の概念化 那須「病としての異端」

身体医文化論―感覚と欲望

身体医文化論―感覚と欲望

  • 那須敬「病としての異端:17世紀内戦期イングランドにおける神学と医学」石塚久郎、 鈴木晃仁編『身体医文化論:感覚と欲望』慶應義塾大学出版会 、2002年、67–90頁。

 一時代の宗教的熱狂の反映として片付けられがちな表現形式を、適切な概念装置とかみあわせることでより一般的な問題を構成するものとして提示してくれる優れた歴史研究です。1600年代半ばのイングランドではピューリタン勢力の分裂とそれにともなう激しい論争が起こっていました。国教会改革の統一的続行を求める長老派は次々とあらわれる諸セクトに異端というレッテルをはって徹底的に攻撃するというキャンペーンを展開していました。

 その際に長老派側の神学者たちはしばしば諸セクトやそれに属する人々を病に罹患したものとして描き出します。この病イメージが有効に機能したのは、それが当時の病因論によって裏づけられていたからです。すべては神の摂理のもと起こるのだから、身体の病気もまた魂が神との調和を失ったことにより起こると考えられていました。ここから神との調和を失った魂が身体的な病気だけでなく、不信仰や罪という魂上の病気を引き起こすという観念が成り立ちます。

 この観念の上にたって聖職者たちは次のように主張します。異端というものは様々な種類があるが、とにかくそれは病としてとらえることができる。それは魂を壊疽(ないしは癌)のように腐敗させ、ペストのように人から人へと感染する。それは「しつこい」、つまり異端者たちは一過性の過ちを犯しているのではなく、その誤りに固執する。したがって異端には断固たる治療が行われねばならない。それを行うのは魂の医師たる聖職者だ。しかもこの病は単に個々の異端者だけではなく、教会全体を冒している。教皇主義者を追い落としたいまこそが教会という身体を再生(リフォメーション)させる好機であるのに、異端という病は教会の奇形化(デフォメーション)を招いてしまっている。

 ここからうかがわれるのは、単に古くからある宗教的観念が当時の病因論を規定していたとか、否定的にとらえられた対象に病という隠喩が与えられていくとかいう枠組みではとらえきれない事態です。聖職者たちは当時の病理学的な知を援用することで、彼らが相対していたものを一つの対象として、つまり異端として概念化していました。宗教が医学を規定したのでも、医学が宗教的対象に当てはめられていたのでもありません。医学的知が宗教的知を構築していたのです。

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