最も長きにわたった専制の実態:初期近代のアリストテレス主義

The Rise of Modern Philosophy: The Tension Between the New and Traditional Philosophies from Machiavelli to Leibniz

The Rise of Modern Philosophy: The Tension Between the New and Traditional Philosophies from Machiavelli to Leibniz

  • 「初期近代アリストテレス主義の活力と重要性」Christia Mercer, "The Vitality and Importance of Early Modern Aristotelianism," in The Rise of Modern Philosophy: The Tension between the New and Traditional Philosophies from Machiavelli to Leibniz, ed. Tom Sorell (Oxford: Clarendon Press, 1993), 33–67.

 ライプニッツ研究者による初期近代アリストテレス主義についての総説的論文です。ライプニッツを専門にするだけのことはあって、しっかりと1600年代の後半までが視野に入っており、地域的にもイタリア、ドイツ、イングランド、フランスの話題がバランスよく盛り込まれています。Grantはパリ中心主義、Schmittはイタリアとイングランド中心、LohrとKesslerは哲学の自律性や自然主義を強調する傾向があるなか、この論文は強い主張や重点の置き方を打ち出さずに当時の状況の整理に徹しています。その分面白みには欠けるものの、とりあえずの基準点を提供してくれています。

 この世界でアリストテレス主義ほど長いあいだひたすら批判されてきた学問潮流というのは少ないのではないでしょうか。ペトラルカから17世紀の新科学の担い手たちにいたるまで、多くの人々がアリストテレス主義は一枚岩の哲学者集団で、今起こっている知の変動になんの貢献もせず、むしろ新しいものにすべて反対する反動勢力で、要するに今勃興しつつある新しい知のあり方に比べるとはるかに劣ったものだと、それはもうあきれるほど繰り返し非難してきました。ドライデンによるとアリストテレス主義こそは「最も長きにわたった専制 the longest tyranny」でした。

 このような批判がひたすら続けられたことは、それがある程度現実を反映したものであったことを意味しているものの、その批判を丁寧に検討してみれば、批判者たちがアリストテレス主義を十把一絡に攻撃していたのではなく、多くの場合その内部で区別を設けていたことがわかります。まず第一に、アリストテレスアリストテレス主義者が分けられました。大元はよかったけどそのあとダメになったというやつです。「アリストテレスとスコラ学者のあいだには、国務に精通した偉大な人間と独居室で夢想に耽っている修道士とのあいだにあるのと同じ違いがある」(ライプニッツ)。第二に、アリストテレス主義者の中にもよいものとわるいものがいるという論法でした。ここから反アリストテレス主義と言っても、何に反対するのかが論者間で大きく異なっていたことがわかります。またこれはアリストテレス主義内部での多様性の存在も示しています。実際「トマス・アクィナスの哲学にしたがうやつらは、役に立たない想像の産物を盲目的に支持するやつらだ」と、まるで反アリストテレス主義者が言いそうな苦言を呈するアリストテレス主義者がいました。

 この多様性はたとえば霊魂の不死を理性によって証明できるか、あるべき学問的方法論とは何か、望ましい教育とはいかなるものか様々な見解と多様な試みがアリストテレス主義者のあいだで行われていたことにあらわれています。たとえばイングランドプロテスタントたちはオックスフォード大学から、カトリック圏で組み上げられてたアリストテレスを基礎に置く教育カリキュラムを追放することにしました。でも長年かけて洗練させてきたアリストテレス主義の体系的プログラムを、人文主義の理念に基づいた教育で代替するのは無理があるわってことで、1570年代にははやくもかつてのカリキュラムの見直しがはじまります。その結果、新たに組まれたカリキュラムは人文主義的な要素、宗教改革的な要素を取り込んだ新たな種類のアリストテレス主義となりました。

 1600年代は特に自然哲学の分野で大きな変動が起こったことで知られています。デカルトガッサンディの機械論哲学が代表的です。これらの新しい思潮に対しても、アリストテレス主義者たちは頭からそれを拒絶したわけではありませんでした。反対に予想外に多くの人物が、新たな自然哲学の知見を受け入れています。彼らの多くは、古代の哲学というのはもし正しく解釈されたならば、新しい哲学の成果と多くの点で一致するだろうと考えていました。ある者はアリストテレス哲学の枠組みに、新哲学の成果を入れ込もうとしました。ある者はアリストテレスの根本的術語(質料、形相など)を再定義して、その哲学をエウクレイデスやガッサンディデカルトのものと統合しようとしました。ゼンネルトやライプニッツが、アリストテレスのラディカルな読みかえを行ったことはこのブログでもしばしば触れてきたことです。

 多くのアリストテレス主義者が保守的で反動的であったという事実こそ否定しがたいものの、冒頭であげた批判が物事のある側面を誇張しているのは間違いないでしょう。もし17世紀の哲学を表面的でないレベルで理解したいならば、アリストテレス主義内部の多様性を理解し、それらが果たした役割を見定めなければならないとしてMercerは論考を結んでいます。

関連書籍

Leibniz's Metaphysics

Leibniz's Metaphysics

 日本語の書評があります(114ページから)。