動物学・植物学の変容

 『ケミカル・フィロソフィ[邦題:近代錬金術の歴史]』で有名なディーバスによる初期近代科学史の概説書です。「変化する世界における自然の研究」と題された第3章を読みました(59–91頁)。1500年代から1600年代にかけては動物と植物に関する知識が飛躍的に拡大しました。中世までの動物についての知識は基本的にプリニウスの『博物誌』に基づいたものでした。ルネサンス人文主義が勃興すると、まずこの古代著作が文献学者の批判にかけられます。たとえばエルモラオ・バルバロは『プリニウス修正』という書物を著し、古代の他の出典からプリニウスの記述を修正しようとしました。人文主義者らしくこの修正は自然界の観察ではなく、古代の他資料の観察(熟読)から行われていたのがミソです。プリニウスの百科全書的伝統はゲスナー、アルドロバンヴィ、トプセルらの著作に受け継がれます。しかしこれと並行して主題を絞ったモノグラフも出現しはじめました。たとえば魚、犬、昆虫についてなど。知識の拡大にとってより決定的だったのが、新たに発見された土地からもたらされる新種でした。サイとかトラとかナマケモノとかなんじゃこりゃーという感じで記述されるのです(冒頭の絵はナマケモノここから抜粋)。特にトプソンはオラウータンって古代の書物に現れるサトゥロスだ、と喜んでいました。

 植物の研究はアリストテレスとその弟子テオフラストスが先鞭をつけていたものの、もっとも重要な古代の資料はディオスコリデスの『薬物誌』でした。これは表題からわかるとおり、多くの(500くらい)植物をその薬効に焦点を当てて記述したものです。この医療との結びつきから植物への関心は古代以来途絶えることがありませんでした。15世紀末には地域ごとにそこの植物を記述した大部の書物が現れます。1533年にはパドヴァの医学校にて植物学の講座が設立されました。関心が高まる中、植物をより正確に描こうという試みがブルンフェルス、ボック、フックスらによって行われます。これと並び錬金術の蒸留技術を用いることで薬草の薬効を取り出せるのではないかと考えられたことから、薬用植物を蒸留する技術についての書物がたとえばゲスナーにより著されました。

 植物研究の分野でも新発見の地から届けられる新種の植物は大きな意味を持ちました。特にそれは疫病で苦しむヨーロッパに新たな治療薬の可能性を提供するものとみなされて歓迎されます。インドやアメリカの植物を記述した書物がスペイン語で出版され、それが各国語に訳されるということが繰り返されました。こうして知られる植物種の数が飛躍的に拡大すると、それを分類するかという問題に学者たちは直面しました。もはやアルファベット順の分類では対処できず、植物の高さ、複雑さ、葉の形、花、種子、果実といった多様な分類基準が提唱されました。リンネの分類体系に結実する系統化への努力はこの時代にはじまったのです。