科学革命における権威と経験の変質 Dear, "Totius in Verba"

 3月20日に科学革命に関する新たな概説書の翻訳が出版されました。著者はピーター・ディア、訳者は高橋憲一さんです。

知識と経験の革命―― 科学革命の現場で何が起こったか

知識と経験の革命―― 科学革命の現場で何が起こったか

 というわけで訳書刊行記念という趣で、今日は著者ディアの代表作をとりあげます。中世・ルネサンスから近代科学への転換を、経験とそれを下支えする権威の変質に求めた論考です。

 初期近代に起こった科学革命は新たな研究共同体を生み出しました。その代表的なものがロンドン王立協会でした。協会は当時、何よりもまず新たな自然探求のあり方を象徴するものとして理解されており、その方法とは人々の協力によるものとされていました。しかし協会の現実をみると、会員間の実質的協力というのは行われておらず、むしろ自然知識についての共通の価値観を有する者たちの連合という性質を強く持っていました。

 しかし曲がりなりにも彼らが共通の価値観を持っていた以上は、それを支える共通の土台があったはずです。それはなんでしょうか。彼らがよって立っていた権威とはなんなのでしょう。中世からルネサンスにかけてはこの権威というのはアリストテレス(ないしはガレノス)のテキストでした。このことはこの時代の人々が本ばかり読んでいて、経験というものにまったく取り合わなかったというわけではありません。アリストテレス自身、自然探求というのは感覚からえられる経験よりはじまるとはっきり言っている以上、彼らの議論も経験的命題から出発することがしばしばでした。ただそこで言われる経験にはいくつか特徴がありました。まずそれは自然世界で決まって起こりうるような事象についての一般的な命題でした。またこの命題の出所はそれを議論で用いる個人というよりも、むしろ権威あるテキスト、つまりアリストテレスのテキストから引き出されている方がより信頼の置けるものとみなされていました。このような権威あるテキストに基づく一般的命題から出発するがゆえに、中世とルネサンスの自然探求というのはアリストテレスのテキストへの注釈という形で遂行されることが大半でした。

 これに対してよく知られているように、王立協会の会員たちは古代の権威を否定しました。しかしこれは共通の土台の消失をも意味しないでしょうか。実際彼らが提唱する理論というのはぜんぜん一致していませんでした。それでもなお彼らを王立協会という集団につなぎとめていたのはなんだったのか。それは中世とルネサンスにおけるのと同じで、やはり権威に基づく経験でした。しかしそこではこの権威と経験の内容がまるっきり変わっていたといいます。

 経験からいうと、王立協会で求められていた経験というのは、一般的にどのような現象が起こるかというものではなく、ある特定の時に特定の場所で特定の手順にしたがって特定の人物が実感・観察を行ったときに、何が生じた(過去形)かの報告でした。過去の一回きりの出来事がその経緯そのままに伝えられたときそれが経験とみなされたのです。この経緯の真実性を保証するためにその実験が行われた際の具体的な状況が事細かに報告されるということが行われました。

 過去の一回限りの出来事としての経験を下支えするのは、もちろん古代のテキストではありませんでした。それはその経験を体験した特定の人物です。誰が実験を行ったかということが極めて重要になります。その結果王立協会の報告では、報告者が受動態ではなく能動態の過去形をつかって、自分の経験の経緯を説明するということが行われました。もしその経験が伝聞であるならば、それがいつどこで誰によって経験されたかが確かめられていなくてはなりません。実験の目撃者が経験の真実性に付与する確からしさも重要視されました。目撃者の身分が高貴であれば、観察結果の真実性はよく保証されるとみなされていました。しかし同時に身分の低い者たちは、理論的な偏見がないから、かえって目撃したことをありのままに証言すると期待されもしていました。

 王立協会で過去の一回限りの経験を自分という権威に基づいて報告することが重視されていたという事実は、科学史上有名な虚偽報告をもたらしました。アイザック・ニュートンは自らの光学上の発見のきっかけとして、1666年の初頭に、暗くした部屋に窓にあけた穴から太陽の光を入れて、それをプリズムに通したという出来事を語っています。しかしニュートンの光学上のアイディアというのは、実際にはこのような出来事に由来するものではなく、この発見のきっかけについてのエピソードは彼のつくり話であったことが明らかとなっています。このことは、王立協会での報告に際して、ニュートンが自らの発見をそこで妥当と認められている種類の経験に基づいて提示しようとしていたことを示しています。

 王立協会で実践された科学の内容よりも、そこで実践されていた科学のスタイルの方がより重要であったと著者は主張します。テキストに基づく一般的な経験は、特定の個人に基づく特定の経験へと転換しました。こうして自然哲学の新たな語り口と実践の構造が生み出され、それが大陸でも自然探求のモデルとして採用されることになります。新たな権威、新たな経験、その上にたってアカデミーで実践される新たな協働がその後の科学を形づくっていくことになります。