The Cambridge History of Renaissance Philosophy
- 作者: C. B. Schmitt,Quentin Skinner,Eckhard Kessler,Jill Kraye
- 出版社/メーカー: Cambridge University Press
- 発売日: 1990/09/20
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- William A. Wallace, “Traditional Natural Philosophy,” in The Cambridge History of Renaissance Philosophy, ed. Charles B. Schmitt and Quentin Skinner (Cambridge: Cambridge University Press, 1988), 201–35.
ルネサンス哲学の基本書からアリストテレス自然哲学の伝統を扱った章を読みました。自然についての考察の分野では中世とルネサンスを区別するのは簡単ではありません。どちらの時代でもそれはアリストテレスの自然についての書物に基づいていました。それは体系的な世界観を形作りながら、いくつかの学派に分裂していました。経験や観察に依拠することはほとんどありませんでした。
しかし中世からルネサンスにかけていくつか力点が置かれる場所が変化することは確かです。ルネサンスには古代のテキストへの回帰が起こります。ただしこれは同時にルネサンスのアリストテレス主義者が保守化することも意味しました。中世のスコラ学者は真理にそぐわないことを異教徒のアリストテレスが述べているとみなしている場合は、そこからためらいなく離れることができました。しかしテキストに忠実であることの要請が高まったルネサンスではこれは容易ではありませんでした。ルネサンスにはまたプラトンをはじめとするアリストテレスとは別の形での自然へのアプローチの可能性が見出されました。同時に各知識人の学派の忠誠の度合いが減少します(なぜ?ほんとうか?)。いくつかの学問分野でも変化が観察されます。数学を応用する分野、たとえば機械学や光学といった分野が予備的科目ではなく、大学カリキュラムの中核に置かれるようになります。特にこれらの分野はその実用性ゆえに宮廷で高く評価されました。医学の分野では薬草の研究への要請が洗練された観察の実践をもたらしました。論理学は教育用に設計された形式的なものから、それを実際に使うことを重視した発見的なものへと変貌をとげます。
これらの変化の中心にあったのは学問の方法論の分野でした。自然現象の解明に数学が必須であるとする立場は、オックスフォードのマートン学寮にいた計算家たちの伝統に端を発し、コペルニクス以後の天文学の分野で確立されます。現象の観察からその原因に遡ることを正当化する論理がパドヴァ大学を中心に練り上げられます。技術の発展はアグリコラに典型的に見られるように哲学的考察と技術的知見を組み合わせた学知を形成します。論理とそれに基づく討論に適するように設計された(時に無味乾燥な)中世の著作ではなく、より雄弁で文学的配慮の行き届いた形式の教科書に著作が生み出されました。
中世からルネサンスにかけての変化が顕著に検出される分野は落下体の加速の考察の領域です。すでに中世オックスフォードの計算家たちは、落下する物体は一定の割合で加速していくということを比例的に表現しようとすでに試みていました。正確にいつかはわからないものの16世紀にはこの理論が実際の検証にかけられるということが行われます。アリストテレスによれば重い物体は軽い物体ほどはやく落ちることになるものの、少なくとも1544年にこの見解を否定する実験が行われていたようです。1576年にはGiuseppe Molettiが鉛と木のボールを同じ高さから落とすと同時に地面に落下するという検証(prova)の報告をしています。ピサ時代のガリレオの教師であるGirolamo Borroは同じ実験をすると、木のボールのほうが必ず鉛のボールよりもはやく地面に落下すると報告しています。これを受けてガリレオが(ピサの斜塔から?)ものを落下させる実験を行ったことはよく知られています。16世紀の終わりにはこのような問題を実際に検証するということが行われはじめていたのです。
しかしこのような実験的探求の勃興は、アリストテレスを基礎に組まれた伝統的な自然学の崩壊をもたらしました。それはあまりに強くアリストテレスに依存しており、経験的にもたらされる新たな知見を内部に取り込むことができませんでした。またそれは基本的に大学での教育目的に整備されたもので、教育対象となる人々はしばしば将来の神学者でした。自然研究それ自体がテキスト読解の目的とされていたわけではありません。トレント公会議後はとりわけ、教育の重点が形而上学と倫理学に置かれるようになり、科学の発展に不可欠な分野が犠牲となりました。正統的な形而上学から離れるとみなされた教説は検閲にかけられるということも行われました。こうして中世からルネサンスにかけて一環して支配的であったアリストテレス自然哲学はその命脈を絶たれることになります。